子どもと平和の委員会

2020年10月

平和について語るときに私の語ること(その2)  小手鞠るい

広島と長崎に落とされた原爆の是非について、公開討論会で意見を戦わせるアメリカの高校生たちを描いた『ある晴れた夏の朝』(偕成社、2018年刊)の英語版の出版に向けて、着々と準備を進めています。この作品の英語版を出すことは私の悲願のようなものだったので、出版が決まって、とても嬉しく思っています。

 

先に「英訳版」ではなくて「英語版」と書いたことには、理由があります。それは、もしも逐語訳版を出版したら、日本国内では問題にならないことでも、アメリカでは問題になるかもしれない、というようなことを私が書いているからです。実は、作品を書いているときにも、私は「アメリカの読者」を少しは意識していました(アメリカ国内が舞台になっている物語なので)。意識はしていましたが、その意識がまだまだ足りなかったということです。

 

 たとえば、アフリカ系アメリカ人の登場人物に、私は「ダリウス」という名前を付けました。なぜダリウスにしたのかというと、実際にアフリカ系アメリカ人で、ダリウスという名前の人を知っていたからです(カントリーソングの歌手)。実際にそういう名前の人がいるから間違いないだろうと思って付けました。アフリカ系の人の中には、わりとユニークな名前の人も多いので、そういう雰囲気も出るといいのかなと思ったのです。

 

しかし、英訳を担当してくれることになった夫(アメリカ人です)から、さっそく指摘されました。「この名前はまずい。もっと匿名性のある名前にしなくてはならない」。つまり、私がアフリカ系アメリカ人に「いかにもアフリカ系らしい名前を付けている」ということがある種の人種差別に当たる、というわけです。

 

また、ノーマンの愛称が「スノーマン」である、というのもよくない。なぜなら、スノーマン(雪男)は肌が白くて太っている。もしもノーマン(白人です)の体格が太めなのであれば、それは明らかに差別的な愛称であるということになる。 これ以外にも、細かいところで、差別コードに引っかかる箇所が多々ありました。アメリカでは、本人が本人の人種に言及するのは問題ありませんが、本人以外の人がその人の人種を口にしたり、話題にしたりすることは厳禁です。たとえば、本作の主人公のメイが「エイミーはチャイニーズ系アメリカ人です」と発言してはいけない。

 

アメリカ人は総じて、ファミリーネームによってある程度、人種や出身国はわかるようになっています。たとえば私の夫の苗字は「サリバン」ですから、彼はアイルランド系であると、誰にでもわかります。しかし、夫の父親の母親はユダヤ系なので、夫はアイリッシュ&ジューイッシュ系なのです。だから、何も知らない人が夫をアイルランド系だと思って、うっかりユダヤ系の悪口を言ったりすると、大変なことが起こります。

 

どんな人種も平等に尊重されなくてはならない。人種はその人のかけがえのない個性である。しかし、その人種をステレオタイプに描いてはいけない。もちろん人種だけではなくて、性別についても、家族構成についても、同じことが言えます。アメリカの児童書業界では、編集者も、作家も、このことを頭に叩きこんで作品作りに励んでいます。少なくとも私の目には、そのように映っています。

 

私自身、日本語で日本人向けの児童書を書いているときに、日本人以外の人種の子どもたちをどれくらい意識しているでしょうか。正直なところ、これまではほとんど意識していなかった。日本国内には「在日韓国人」と呼ばれている(この呼び名、本当におかしいと私は思います)日本人、外国人と日本人の両親のもとに生まれた日本人(ハーフという呼び名、今もあるのでしょうか)、日本国籍を取得した元外国人である日本人とその子どもたちも住んでいる--------にもかかわらず。これは私自身の大きな反省点でした。あるいは盲点だったと言ってもいいかもしれません。

 

そんなこんなで、『ある晴れた夏の朝』は、アメリカ人読者が読んでも違和感のない英語版に生まれ変わりつつあります。この作品が広く英米圏で読まれて、日本への原爆投下に対する理解をよりいっそう深め、平和について考えていただける一材料になったら、こんなに嬉しいことはありません。みなさん、『On A Bright Summer Morning』をぜひ、応援してください。

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2020/10/31

平和について語るときに私の語ること 小手鞠るい

タイトルは、レイモンド・カーヴァー(村上春樹訳)の真似です。

 

先ごろ、「平和とは何か?」というテーマの児童書の執筆を終えたばかりです。子どもたちに平和を教えるということは、戦争を教える、ということでもありますから、私は世界で起こったさまざまな戦争を取り上げて書こうと決めました。

 

(1)平和憲法とその改正について考えている現代の日本の子ども。

(2)イラク戦争に父親が参戦することになったアメリカの子ども。

(3)911テロ事件で母と弟を亡くした(当時アメリカ滞在中だった)日本の子ども。

(4)おじさんが湾岸戦争に行くことになったイラクの子ども。

(5)ヴェトナム戦争で父と兄を失ったヴェトナムの子ども(この少女は過去に兵士としてヴェトナム戦争で戦ったこともある)。

(6)ナチスドイツの迫害から逃れようとして懸命に生きるユダヤ系の子ども。

(7)太平洋戦争中、殺された動物園の動物たちに思いを馳せる日本の子ども。

(8)真珠湾攻撃によって、祖母の暮らす日本へ行けなくなったハワイの子ども。

(9)強制徴用されて日本へ来た朝鮮半島出身の曽祖父から、当時の話を聞く現代の日本の子ども。 合計9人の子どもたちを登場させました。

 

(1)から順に過去へさかのぼっていって、最後の(9)でふたたび現在にもどる、という構成。男女の割合は、女の子が男の子よりひとり多い。いろんな時代に、いろんな場所で、いろんな戦争があった。日本の子どもたちにとって、戦争は決して遠い外国で起こっているできごとではないし、他人事ではない、ということを、物語を通して感じとってもらえたらいいなと思って書きました。

 

原稿を書き上げて、イラストレーターから送られてきた表紙の下絵を見せてもらったとき、私は「ううん、どうなのかな、これは」と、首をかしげました。表紙には、日本の子ども4人、アメリカの子ども2人、イラクの子どもひとり、ヴェトナムの子どもひとり、ユダヤ系の子どもひとり、合計9人の姿が描かれています。日本人読者向けに日本語で書いた、日本で出版される本なのだから「これでいいのか」とも思うのですが、その一方で、アメリカ在住(今年で28年目)が長くなってきた私には「どこか不自然」に思えてならないのです。

 

不自然かなと思えた理由は、アフリカ系、ラテン系、ネイティブアメリカン、その他の少数民族の姿が描かれていないこと。しかし、これは当然です。私の書いた物語には、そういった人たちは出てこないのですから。だったらなぜ?

それは、カバーに描かれていた子どもたちがみんな同じような背格好をしていたからです。太った子もいなければ、背の低い子もいない。障害のある子もいない。目の見えない子もいない。みんなそろって、元気で素直で明るくて健康そうな、いい子。それのどこがいけないのか?

 

いけなくはありません。いけなくはないのですが、やはり「これではいけないのだ」と思えてならない。「みんなおんなじ」「みんな健康」「みんなきらきら明るい笑顔」というような、児童書にありがちなイメージというか、傾向というか、そこに潜んでいる危険な思想、あるいは無意識、あるいは無知に対して、アメリカという多種多様な人たちが暮らす国に長く住んでいる私は、敏感になっているのかもしれません。

 

現在のアメリカ(あくまでも私にとってのアメリカということです)では、人種差別、男女差別、年齢差別のみならず、太った人に対する差別、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー(LGBT)の人たちに対する差別、障害のある人たちに対する差別、それらを少しでも匂わせるような出版物、特に児童書における差別の匂いに対して、非常に神経質になっているように、私の目には映っています。いわゆる政治的正しさですね。偏見でゆがんでしまった大人の考えを正すのは至難のわざ。ならば、まだ世間の毒に汚されていない子どもたちに偏見を抱かせないようにしなくては、という努力を、アメリカの児童書業界はやろうとしているのでしょう。

 

これは素晴らしい努力だと私は思っています。大いに神経質になっていいのではないでしょうか。かつての女性解放運動のように、嫌煙運動のように、児童書業界における差別の撤廃運動が起こったらいいなと夢想するのは、私だけでしょうか。

以前、日本の出版社から絵本の原作を依頼されたとき「障害のある子を主人公にしたい」と話したら、編集者から「普通の子にして欲しい」と言われたことを思い出します。私は、目の見えない母(母の弟には知的障害があった)といっしょに暮らしてきたこともあって、障害のある人は特別な人ではなくて、ある意味では「ごく普通の人である」ということを、普通に理解しているつもりです。世の中には、健常者の物語が多過ぎる、とも感じています。子どもたちが平和を考えるとき、その子どもたちの中に障害のある子が含まれていて、どこがいけないのでしょうか。

 

また、これは別の児童書ですが、物語に「おばあさん」を登場させたところ、顔はしわだらけ、腰の曲がった、よぼよぼのおばあさんのイラストが上がってきたので「これは違います。ジーンズにTシャツにスニーカー姿の、若々しくて美人のおばあちゃんを描いて下さい」とお願いしたこともありました。だって私は64歳のおばあちゃんなんですから!

 

話が横道に逸れていきそうなので、このあたりで話をまとめます。結局、9人の子どもたちのうち、ひとりにめがねを掛けさせてもらい、ひとりはちょっとだけ背を低めに、あとひとりはちょっとぽっちゃり、というところで、妥協しました。松葉杖をついている子、もリクエストしたのですが、それは却下されました。

 

平和について考えること、イコール、世界の多様性と人間の多様性について考えることではないだろうか。このエッセイを書きながら、私はそんなことを考えました。最後は小学生の作文のようになってしまいましたが、お許し下さい。64歳ですが、気分は子ども!

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2020/10/22

日本学術会議任命拒否問題で考えた

 みなさん、こんにちは。「子どもと平和の委員会」委員長の西山利佳です。

 10月15日付けで、私たち日本児童文学者協会では、理事会声明「日本学術会議の任命拒否問題について、わたしたちはこう考えます」を出しました。 → https://jibunkyo.or.jp/old/index.php/about/declaration ご覧いただけましたか? 自分の会のHPにアップされるのと、「日刊ゲンダイ」(10月16日)に当声明に言及した記事が載るのとほぼ同時だったようです。なんか、びっくり。

 私は本件が最初に報道されたとき思ったのは、「総理大臣って、天皇が任命することになっているけれど、任命拒否ってできるの? もし、そんなことがあったら、大問題じゃない?」ということでした。いろいろ見ていたら、宇都宮健児弁護士も以下のようにコメントされていました。

<「日本学術会議法17条2項は日本学術会議の会員は同会議の推薦に基づいて内閣総理大臣が任命すると定めているが、同会議の独立性を考えれば内閣総理大臣には任命権はあるが任命拒否権はないと解釈すべきである」との考えを示した。宇都宮氏は同様の例として「憲法6条1項により天皇に内閣総理大臣の任命権はあるが任命拒否権はないのと同じ考えである」と指摘した。>https://www.daily.co.jp/gossip/2020/10/04/0013755364.shtml より

 さて、以下、本件に関してこのところ考えたことをつらつら書きたいと思います。

(いま、うっかり「書かせていただきます」と書きかけて、おっといけねぇ!と書き直しました。「〇〇させていただきます」の蔓延に抵抗する会の会員として。注・そんな会あるんかい?)

 スエーデンの児童文学「ステフィとネッリ」シリーズ(全4巻、アニカ・トール作、菱木晃子訳、新宿書房、2006~2009年)をこのところ毎年学生と読み合っています。今年も再読をはじめて、何度読んでもすごい作品だわーと思っているところです。これは、ナチスドイツの占領下におかれたウィーンからスウェーデンに逃れたユダヤ人の姉妹の物語です。救援委員会から養父母に支払われるお金、自宅の空いた部屋に住まわせ進学を支えてくれているお金持ち……。

 ステフィは、しばしば不当な扱いを受けます。お金を出してもらっている、家に置いてもらっているから感謝しなくてはならないのだろうけれど……と納得できない思いを抱える場面を読んで、ああ、これ、日本学術会議の任命拒否をずらして、税金10億がどうのこうのという話にされている、これだ、これ! とつながりました。

「だれに食べさせてもらってるんだ?!」

親から子へ

夫から「専業主婦」の妻へ

あるいは生活保護受給者へ、福祉支援を受ける障がい者へ……

なかなか無くならないパワハラ発言の数々。

 2019年度の協会賞受賞作『むこう岸』(安田夏菜・講談社)が、生活保護受給に対するパワハラマウンティングをきもちよく切り返していたことも思い出されます。

どうしてお金を出す方がえらいと思うかな?

<菅首相は会見の中で、学術会議の会員は特別職の国家公務員としての性格を持ち、税金から出費しているのだから、その構成にも責任を持つべきといった趣旨の発言をしています。まさに「金を出すのだから、口を出すのも当然」という論理です。>

 今回の、児文協理事会声明の一節です。

 公共施設で「九条」をタイトルにしたイベントが開きにくいとか、この理屈の延長線上にありますよね。愛知トリエンナーレ問題もまさに同じ。

 「私は苦心して、慰安所をつくってやった」と自慢していた中曽根康弘という政治家(あ、もちろん、その他いろんなことをなさっています。)の内閣と自民党の合同葬儀に弔意を求める文書を国立大学に出すとか、くらくらするような、暴挙もこの延長戦もとい延長線上にあるのではないでしょうか。「国立」なんだから、国の言うことは聞け、と。

国ってなんでしょね。

 それに、先にパワハラ親父やパワハラ夫、と今回の件を相似形の構造として並べましたが、そもそも、国の運営資金は私たちが出し合っている「税金」です。

<政府・与党は、学術会議には税金が投入されているとか、既得権益だとかいうような議論を展開し、今回の判断を正当化しようとしていますが、税金は国民全体のものであり、時の政権の「私物」ではありませんし、組織のもつ問題点と委員任命の手続きが正当か否かはまったく別の問題であることもいうまでもありません。いずれも悪質な議論のすり替えというべきものです。>

「フォーラム・子どもたちの未来のために」の「声明」の一節です。 https://www.f-kodomotachinomirai.com/appeal

 限られたお金を、どういう風に使うか、様々な立場、価値観の人間が集まっている社会をよりよく運営するために、より公正にやりくりするのが政府の役目ではないのでしょうか。大事なお金を、やれマスク配るのに460億、中曽根の葬儀に約1億円、オスプレイにいくら投入した? あたしゃ、なさけないよ、ちびまる子ばりにため息をつきたくなります。

 芸術・文化、学問研究、それぞれ好きなことをやってるんだから、自分の金でやれよって、「自助」バンザイの人は言うのかもしれませんが、自由に展開される芸術活動・研究活動に、出資する度量の国になればいいのに。しなくちゃな、と思います。

 ああ、それから、日本学術会議の会員が総理大臣の任命になったときからこの事態は始まっていたのだろう、というのも、この間の感想です。1983年、中曽根政権下で政府高官が「実質的に首相の任命で会員の任命を左右するということは考えていない」と国会で答弁したのだそうですが、「国旗・国歌法」(国旗及び国歌に関する法律)が1999年に成立したとき、志位和夫議員の質問に対し、内閣総理大臣小渕恵三が、1999年6月29日の衆議院本会議で以下のように答弁したのだそうです。(「ウィキペディア」ありがとう!)

<国旗及び国歌の強制についてお尋ねがありましたが、政府といたしましては、国旗・国歌の法制化に当たり、国旗の掲揚に関し義務づけなどを行うことは考えておりません。したがって、現行の運用に変更が生ずることにはならないと考えております>

でも、その後どうなりました?

 君が代伴奏を拒否した音楽の先生を処分し、歌っているかどうかを教育委員会の人間がチェックするとか!

  法律は力を持つのですよ。安倍政権以来、法律が軽視されていますけれど、私たちは法に律されます。

 そう思うと、「特定秘密保護法」(特定秘密の保護に関する法律・2013年)とか、「共謀罪法」(改正組織的犯罪処罰法・2017年)とか、あらためてじわじわ怖い。

 うーん、土曜日の「学習交流会」がとても楽しく充実していて、豊かな気分になったところで、書くほどに憂鬱になってしまいましたけれど、ひとりで悶々とするよりみんなで怒った方が精神衛生上よいですね。

「金を出していただくのだから、言うことを聞くのは当然」という価値観なんて、はぁ?という子どもや若者がのびのびと活躍する児童文学をたくさん読みたいと思う、西山でございます。最後まで読んでくださって、ありがとうございました!(2020/10/18記)

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2020/10/19