藤田のぼるの理事長ブログ

8、終戦記念日に~「最後の空襲」の話(2020,8,15)

【最後の空襲とは】

◎75年目の終戦記念日です。児文協の創立75周年も7ヵ月後ということになります。もっとも、8月15日が「終戦記念日」であることを即答できる日本人の割合も結構減っているのかもしれません。

  さて、僕はここ数年、その前日の14日のことを追いかけてきました。1945年8月14日です。この日、日本はポツダム宣言受諾を連合国側に通告し、翌日の天皇によるいわゆる玉音放送となるわけですが、アメリカ軍による日本への空襲は、8月14日深夜、いや15日未明まで続けられました。「ついで」の所を含めると、かなりの箇所になりますが、この日の主な爆撃目標は、小田原や熊谷、山口県の岩国、愛知県の豊川、群馬県の伊勢崎などで、熊谷は埼玉県でほぼ唯一の本格的な空襲被害として記録されることになりました。

  これらの町と並んで目標となったのが、秋田の土崎という町です。爆撃は未明の3時過ぎまで続いたといいますから、まさに「最後の空襲」です。土崎は、今は秋田市に含まれていますが、日本海に面した港町で、秋田市と土崎の関係は、東京と横浜といったところでしょうか。秋田市ではなくなぜ土崎がターゲットになったかといえば、当時秋田には油田があり、その精製工場やタンクが土崎にあったからです。日本で石油が獲れていたことを知る人は少ないでしょうが、新潟や秋田には油田があったのです。一説には、終戦になってもそれを認めない一部の部隊が飛行機でやぶれかぶれの特攻攻撃をかけてくるのを阻止するため、飛行機燃料をなくそうとして……という話もありますが、これは後付けのような気がします。アメリカ軍は当初の予定通り、14日夜の空襲をやめなかった、ということでしょう。

◎街とは少し離れた石油タンクが狙いということで、人的な被害は熊谷などに比べると少なかったのですが、それでも子どもを含む250人以上の人が犠牲となりました。よく広島や長崎の原爆に対して、「せめてあと十日(あるいは一週間)早く戦争が終わっていれば……」という言い方がありますが、14日夜の空襲で家族を失った人たちの悲しみは、本当にやり場のないものだったのではないでしょうか。そして、その悲しみ、怒りは、日本は(明らかに敗戦は必至だったのに)なぜもっと早く戦争を終わらせることができなかったのか、という問いにつながるはずです。そうしたこの戦争の不条理をある意味象徴しているのが、「最後の空襲」であるようにも思えるのです。

【空襲の絵本を】

◎この土崎空襲について、僕はほとんど知りませんでしたが、十年ほど前からとても気にかかるようになり、(戦後70年の)五年前に、その二十年前(つまり戦後50年の際)に作った絵本『麦畑になれなかった屋根たち』(永島慎二・絵)を再刊してもらったのを機に、なんとかこちらも絵本にできないかと思うようになりました。奇しくも、『麦畑~』は、B29による本土への初空襲(東京・武蔵野の中島飛行機の工場が目標でした)を題材にしており、こういう言い方は不謹慎かもしれませんが、初空襲と最後の空襲を絵本にすることができたらいいな、とも思ったわけです。

 そして、本来なら、このページで絵本の刊行を報告できる予定だったのですが、絵の方が間に合わず、先延ばしとなりました。実は絵をお願いしたのは、「味いちもんめ」などで知られる漫画家の倉田よしみさんで、倉田さんは同じ秋田でも、まさに土崎のご出身。そして後で知ったわけですが、僕の高校の後輩でもありました。その倉田さんの絵で絵本ができるのは僕にとっては願ってもなかったことで、「75年目の8月」を逃したことは残念ですが、絵本ができましたら、このページでも紹介させていただこうと思います。

2020/08/15