藤田のぼるの理事長ブログ

古田足日さんの葬儀

【まずはお詫びから……】

このブログ、5月18日付の「始めます」という予告のようなことを書いてから、一向に更新されず、申し訳ありませんでした。

総会が終わったら、学習交流会や贈呈式、そして総会の様子などをご報告しようと思っていました。総会明けの2日は、(私的なことになりますが)産経児童出版文化賞の贈賞式があり(思いがけないことに、拙作が同賞のフジテレビ賞をいただきました)、翌日からは総会決議の修正や会報(総会報告号)の手当てなどに追われ、おまけに土曜日は前期から講師をしている創作教室があったりで、とりかかれませんでした。

【古田さんの訃報が……】

そんなわけで、8日の日曜日、いよいよブログにとりかかろうとしていた昼少し前、古田足日夫人から自宅に電話がありました。何の気なしに電話に出たのですが、「古田が亡くなりました」というお報せに仰天。とりあえず2、3の人に電話やメールをして、家を出、協会事務局に向かいました。僕の自宅から事務局までは連絡が悪いと2時間近くかかるのですが、その間ボーッとしたような状態でした。事務局で新聞社に送る死亡記事の下書きを作り、東久留米の古田さんのご自宅に向かいました。古田さんは、前日まではまったく普通に過ごされていたということで、朝方、奥様が声をかけたら亡くなっていたという状況でした。そういう場合は、ほぼ例外なく「検死」を受けなければなりません。僕がご自宅に着いた時には、そんなわけで古田さんは病院に運ばれており、前後してかけつけた川北亮司さん、宮川健郎さん、西山利佳さんと一緒に、葬儀社の方と、まずは葬儀の場所と日程の相談になりました。その途中で、古田さんが病院から戻ってこられましたが、やつれたような感じもなく、本当に安らかなお顔でした。

実は、6、7年前でしょうか、川北さんと僕が古田家に呼ばれ、古田さんご本人や奥様と、葬儀のことを話し合っていました。ですから、葬儀に関する大枠は決まっていたのです。問題は会場で、ご自宅のエリアからあまり遠過ぎず、ある程度の人数を収容できる斎場となると、かなり限定されます。そこが空いてるのが、次の土日ということで、間が一週間空いてしまいますが、雨の季節、狭いところでは雨の中を参列者の方にお待ちいただくようなことになってしまい、14、15日の通夜、葬儀と決めたのでした。

【通夜、葬儀は滞りなく終了しました】

そして、14日の通夜式、15日の葬儀・告別式は、たくさんの方においでいただいて、滞りなく終了しました。ずっと続いていた雨が、待っていたように前日あたりからすっかりあがり、両日ともとてもいい天気でした。古田さんのご意向で、式は無宗教という形でした。通夜式は西山さんの司会で、山形からかけつけられた、学生時代からの友人である鈴木実さん、親地連の広瀬恒子さん、通称「古田塾」の門下生?である今関信子さん、そして古田さんのお嬢さんのあかねさんが、それぞれ「別れのことば」を述べられました。

葬儀では、葬儀委員長で、「おしいれのぼうけん」を始め古田さんとはずっとコンビを組んでこられた画家の田畑精一さん、協会理事長の丘修三さん、そして編集者として長く古田さんを支えてこられた童心社の酒井京子さんが、弔辞を読まれました。両日とも最後に奥様の古田文恵さんからご挨拶があったのですが、通夜の際は、古田さんの亡くなる前の晩のことが紹介されました。この日、お嬢さんのあかねさんの一家が訪れ、あかねさん手作りの料理を、とてもおいしそうに召しあがったのだそうです。まさに幸せな「最後の晩餐」だったわけです。そして、葬儀の際には、「通夜の時には、安らかに逝ったと申し上げましたが、古田には心残りがあったと思います」とおっしゃり、古田さんが現今の政治状況をとても憂いていたことが話されました。それを良く示したのが、絶筆となった「児童文学、三つの名言」という文章で、これは童心社が発行する「母のひろば」という冊子の600号のために書かれたもので、発行はこの5月15日でした。当日の参列者には、式次第の裏面に印刷してお配りしました。できれば、会報の追悼ページなどで、ご紹介したいと思います。

ということで、まずは葬儀のとりあえずのご報告でした。僕にとっても古田さんは、元会長という立場上のお付き合いというレベルをはるかに超える特別な存在でした。そのあたりのことは、また改めて書きたいと思います。ブログの事実上の1回目が古田さんの葬儀の報告になってしまったというのはなんとも皮肉ですが、古田さんの仕事の意味を問い続けていくことは、協会にとっても、僕自身にとっても、これから大事な課題になっていくと思います。

 

 

 

 

2014/06/15