藤田のぼるの理事長ブログ

16、新美南吉記念館に行ってきました(20,11,5)

【南吉記念館に】

◎昨日(11月4日)、愛知県半田市の新美南吉記念館に行ってきました。例年のことではありますが、今回は午前・午後と二つの 用件があり、前日名古屋に泊まり(GO TOでホテルがとれたので、さすがに安いですね)、朝から半田 に(電車で30分余りです)向かいました。

 二つの用件というのは、午前中は同館の「事業推進委員会」、 午後からは新美南吉童話賞の選考委員会でした。童話賞の選考の方は毎年この時期ですが、事業推進委員会の会議は例年だと夏に行われるのですが、コロナの関係で延期になり、僕ともう一人二つの委員を兼ねている人がいるので、今回同じ日に設定されたわけです。

◎童話賞の選考結果は、もう少し先に同館のホームページで発表されると思いますが、この賞の特徴は、一般の部の他に、中学生、小学校高学年、小学校低学年の部が設けられていること、そして「自由創作」とは別に「オマージュ部門」があることです。このオマージュ部門は、もちろん新美南吉作品のオマー ジュということで、2013年の新美南吉生誕100年を記念して、新たに設けられました。こうした部門があるのは、僕の知る限り、この賞だけではないでしょうか。こちらは大人も子どもも関係なく一つの部門ですが、今回は、大人たちの作品をおさえて小学校5年生の作品がこの部門の大賞に選ばれました。

 この賞は、特に応募資格は限定されていませんので、自由創作部門も含めて、遠慮なく(?)応募してください。僕としては会員の皆さんにはぜひオマージュ部門(それもできれば「ごんぎつね」「手袋 を買いに」以外の作品で)に挑戦してほしいと思います。

【新美南吉と児文協】

◎ところで、新美南吉と児童文学者協会は、実は切っても切れぬというか、言わば親戚のような関係にあります。神楽坂の協会の事務所にいらしたことのある方は、事務所のドアのプレートの「社団法人 日 本児童文学者協会」という文字の下に、やや小さく「新美南吉著作権管理委員会」と書かれてあるのをご覧になったはずです。つまり、児文協の事務所は、新美南吉の著作権を管理する委員会の事務所でもあったわけです。「あった」と過去形にしたのは、南吉の著作権期限はすでに切れており、現在はこの 委員会は「新美南吉の会」という名称に変わっています。

◎協会事務局が、なぜ新美南吉という個人の作家の著作権管理をしていたかというと、南吉が1943 年に29歳の若さで、ほとんど無名のうちに亡くなったことが原因です。著作権継承者という言葉をご存知かと思いますが、作家が亡くなった場合、その著作権は遺族、多くの場合配偶者か子どもが引き継ぎます。著作権の保護期間は、2年前に法律が改正されて死後70年間に延ばされましたが、それまでは50年間でした。

 ところが、南吉は結婚もせず、子どももいなかったので、その著作権を継承するのは逆に父親という ことになりました。しかし、南吉の父親は文学とは無縁の人で、南吉も生前1、2冊本を出したとはい え、ほぼ無名の新人作家でした。しかし、まだ本にならないたくさんの作品が残っていたわけです。こ の辺は、宮沢賢治のケースに似ています。賢治の場合は、彼の原稿やノートを保管してその後関係者が 賢治の作品を世に出す手助けをしたのは、弟の宮沢清六さんでした。南吉の場合は、その才能を惜しん だ詩人の巽聖歌が、南吉の遺志を受けて、父親に代わって原稿の保管と著作権管理に当たることになっ たのです。巽聖歌は、協会の会長も務めた与田凖一と並んで、北原白秋の弟子の代表格で、白秋が熱心に関わった雑誌『赤い鳥』にも深く関わりました。この『赤い鳥』に童謡や童話を多数投稿し、才能を見いだされたのが南吉だったのです。ですから、巽聖歌は南吉の兄弟子といった存在でした。 実際に、戦後になって巽聖歌は、自分の童謡の仕事以上に、といってもいいほど、熱心に新美南吉の 作品を世に出すために努力しました。今わたしたちが「ごんぎつね」を始めとする南吉作品を読めるのは、巽聖歌のおかげといっても過言ではありません。

◎ところが、その巽聖歌も1973年に亡くなりました。南吉が亡くなってから40年後です。ということは、南吉の著作権保護期間はまだ10年ほど残っていたわけです。もちろん南吉の父親はとっくに亡く なっていますから、そのままだと宙に浮いてしまいます。そこで関係者が集まって「新美南吉著作権管理委員会」をつくり、そこで集団的に管理に当たることになったわけです。関係者というのは、まずは 南吉のほぼ唯一の親族に当たる南吉の弟さん(母親は別ですが)の息子さん、つまり南吉の甥にあたる方、そして上記の巽聖歌の夫人、この方は画家で野村千春さんというのですが、単に巽聖歌夫人だった というだけでなく、生前の南吉を夫と共に何かと面倒を見た方でもありました。次に地元半田市の関係者。この中には南吉の旧制中学時代の友人もいれば、地元で長く南吉の研究を続けていた大石源三さん といった方もいらっしゃいました。そしてもう一つのグループは、若い頃南吉と同様に雑誌『赤い鳥』 などに投稿して、それを文学的出発とした、言わば南吉の文学的同窓生ともいうような方たち、清水たみ子さん、小林純一さん、関英雄さんといった方たちでした。そういうさまざまな方たちが集まって、 新美南吉の著作権を管理することになったわけです。但し、窓口はどこか一本にしなければなりません。そこで、上記の最後のグループの方たちは、当時の児童文学者協会の、言わば要職を占めている方たちでもあったので、管理委員会の事務所は児文協に間借りするように形にしたわけです。(逆に言うと、もし新美南吉が存命だったら、多分児文協の会長になったと思います。)そして、実際の仕事は、協会の事務局員が当たっていました。

◎僕が協会事務局に入ったのは1979年ですから、南吉の著作権管理に当たったのは保護期間が切れる までの4、5年のことですが、まあなんというか、亡くなって50年近く経つというのに、現役作家顔負けに“稼いで”いました。そして、僕ら事務局員は、協会の給料とは別に、新美南吉著作権管理委員会から月々に“お手当”をいただいていましたから、なんというか、南吉は僕にとって遠い親戚のおじさんみたいな感じなのです。

 その後、新美南吉記念館ができ、その設立にも児文協や管理委員会はそれなりに関わっており、そんなご縁もあって、僕は記念館の事業推進委員(外部の有識者による諮問機関で、こうした組織がきちんとしているところも、同館の運営の堅実さを物語っていると思います)を、開館以来務めさせてもらってきました。記念館と協会との関りについてはまだ書くべきことがありますが、またの機会に譲りたいと思い ます。

 冒頭に書いたように、名古屋から名鉄でほんの30分余りで半田には着きますし、半田は他にも見るべきところもありますので、ぜひ一度半田と記念館を訪ねていただければと思います。

2020/11/05