藤田のぼるの理事長ブログ

27、今日は、誕生日です(21,3,5)

【誕生日を迎えて】

◎緊急事態宣言は再延長となりましたが、果たして二週間で済むのかどうか。行政側からは「国民へのお願い」ばかりで、宣言期間中になにをやるのかというビジョンが相変わらず見えてきませんね。

 さて、誠に私的なことですが、今日3月5日は僕の誕生日で、71歳になりました。70歳から71歳ですから、特に感慨もありませんが、まあいつのまにかこんな年になったのだなという感じでしょうか。

 このブログの第2回だったと思いますが、僕が「5の日」に更新することにしたのは「5時55分生まれ」 で、5がラッキーナンバーだからと書きました。その通りなのですが、加えて日も5日、まあ、さすがに5月ではありませんが、生まれた年も昭和25年、西暦では1950年と、それぞれちゃんと(?)5 が付いているわけです。

 ということで、今回は、ごく私的な話題にさせていただこうと思います。

◎僕が協会事務局に勤務したのは、1979年4月、29歳の時です。大学を出てそれまでの6年間、都内の私立小学校の教員をしていました。私立小学校の教員というと、なんとなくエリートっぽい感じがするかも知れませんが、そんなことでは全然なく、むしろ落ちこぼれてそういうことになったというのが“真相”です。

【ということで、やや身の上話になりますが】

◎というのは、僕は秋田大学教育学部の国語科を卒業したわけですが、当時は国立の教員養成の学部を卒業した人のほとんどが教員になったし、またなれた時代でした。東京学芸大とか、大都市の場合は(選択肢が他にもありますから)若干率が下がるかも知れませんが、秋田の場合だと教育学部の卒業生の90数パーセントが教員になっているはずです。但し、この当時から、秋田ではすでに過疎化、少子化の兆しがあり、学校の統合が進んだこともあって、地元秋田で教員になるのは狭き門でした。しかし、大都市圏の、特に小学校であれば、まずまちがいなく、就職できました。東京都や神奈川県などの教育委員会が、先生を確保するために、秋田とか山形とかに出張って就職試験をしていたのです。

 僕も大学4年の時に、東京都の採用試験を受けて、当然受かりました。僕は三男坊ですし、やはり児童文学を勉強したいという気持ちが強かったので、秋田に残る気はさらさらなく、東京を希望したわけです。そして、足立区の某小学校に配属先も決まり、そこの校長先生からは(ここはちょっと問題がありますが)「男の先生に来てもらえて良かった」と、とても喜んでもらえました。

 ところが、3月、卒業を控えて、単位が足りずに卒業できないという事態になりました。当時は学生運動が盛んな時期で、僕も4年間ほとんどそちらに熱中し、授業にはろくに出ていなかったからです。 それでも、音楽科とか体育科とか、実技が重視される学科と違って、国語科の場合は、追加レポートとかでなんとかなるとタカをくくっていたわけです。

 単位を落とされた先生の所を、「就職も決まったの で、なんとかお願いします」と頭を下げてまわったのですが、僕の“誤算”は、どの先生も「ぼくの一存では判断できない」ということで、僕の担当教官のところに、「いま、藤田君という学生が来てるんだけど」と、電話することでした。その後、担当教官(「大鏡」が専門の橘先生という方でした)にお願いしに行くわけですが、仏の顔もなんとやらで、三度目、四度目になると、どんどん不機嫌な顔になっていきます。嫌味も言われます。

 僕はこう見えて(?)結構気が短いところがあり、何度目かに「いいです、先生、もう一年いますから」と言ってしまったのです。その時の橘先生の返答もなかなかで、「藤田君、何年いたって同じだよ」 というものでした。

◎ともかく、そんな経緯で一年留年することになり、その一年間はさすがにまじめに授業に出ました。 そして、前の年は、ろくに就職試験の勉強もしていなかったのですが、今度はちゃんと準備して、もう一度東京都の採用試験を受けたわけです。自信満々でした。ところが、なんということか、落ちてしまったのです。受けるときに何人かに、「去年のドタキャンは大丈夫かな」と相談はしたのですが、誰もが 東京の場合は人数が多いし、関係ないだろうということで、安心していました。誠に甘かったとしか思えません。前年のドタキャンがなければ、落ちるはずはないのです。

 あわてました。僕の人生でもっともあわてた時かもしれません。大学の教務に行くと、「東京の私立初等学校協会というところから求人が来てるよ」という話でした。それで、多分、その足で、というくら いの感じで東京に向かいました。今も市ヶ谷駅の前にある私学会館。そこに協会の事務所があり、面接を受けて、中野区の私立小学校を紹介されました。そのままその学校に行き、校長と面接して、その場で採用が決まりました。

【もし、留年していなければ】

◎後で考えて、もし僕があの時ねばって、橘先生に頭を下げ続けていれば、あるいは4年で卒業できたかも知れません。しかし、そのまま公立の小学校に就職した場合、僕のことだから、組合活動とかに熱中して抜けられなくなり、児童文学の道に進むことは多分できなかったように思います。

 また、留年した年ですが、何人かの一年生たちが、僕が児童文学をやっていることを聞きつけて、「秋田大学児童文学研究会」というのを作りました。そして二度同人誌を出したのですが、その二回目に僕が書いたのが「雪咲く村へ」という、出稼ぎを題材にした作品で、これが『日本児童文学』の同人誌評 で、当時若手作家だった那須正幹さんに、随分ほめてもらいました。それから、多少の経緯があり、十数年後になりますが、この作品が僕の初めての創作単行本として出版されることになります。つまり、 留年がなければ、この作品は生まれていなかったわけです。

 そんなふうに、人間の一生は、なにが幸いになるのか、本当にわからないという気がします。ほぼ50 年近い前のことですが、僕の大きな転機になったできごとを、「71歳記念」に書かせてもらいました。

2021/03/05