藤田のぼるの理事長ブログ

2020年12月

21、児文協2020年重大ニュース(2020,12,25)

【今年最後のブログです】

◎クリスマス、どうお過ごしでしょうか。我が郷里・秋田は、今年は記録的な大雪のニュース。新潟の関越自動車道の立ち往生は、大変でしたね。

 去年出た最上一平さんの絵本『おおゆき』は、雪に閉じ込められて動けなくなった車に乗った人たちに、その地域の人たちが手を差し伸べるお話でしたが、これは一般道だからできたわけで、自動車道の場合は本当に大変だったろうと思います。僕の住む埼玉県坂戸市は関越道の沿線で、僕は自動車の運転免許(43歳で取りました)の時も高速教習は関越道だったし、他人事に思えませんでした。(たまたま今日の午後、冬タイヤの交換に行ってきます。)

◎さて、今日は今年最後のブログでもあり、ベタですが「児文協十大ニュース」をいってみたいと思い ましたが、十もないかなと、「重大ニュース」にしました。では……

①コロナ禍で、総会始め、リモートに

~もう「コロナ」と言ってしまえば、今年のニュースは全部その関係になってしまいますが、今はやや慣れましたが、総会を準備している時点ではまだリモート対応を始めたばかりで、本当にできるかどうか、またどれくらいの方が参加してくださるかもわからず、不安でした。でも、むしろ例年より多いくらいの方にご参加いただき、議事もスムースに進行しました。その後、理事会、そして学習交流会と、リモートがそれなりに定着し、逆に遠方の方からは「リモートで良かった」との声も届いています。これもこうした機器に強い次良丸事務局長あってのことで、僕ではどうしようもありませんでした。

②児童文学学校、創作教室が中止

~コロナで一番痛手だったのは、児童文学学校や創作教室が開けなかったことです。創作教室の方は協会の事務所が会場ということもあり、今までの定員だとどうしても「密」になってしまうので、2コースに分け、リモートも併用するなど、事業部では新しい対応を考えています。

③内田麟太郎理事長の退任

~2期4年間、理事長を務められた内田麟太郎さんが、5月の総会で退任されました。短い挨拶が誠にユニークで(笑)、名理事長でした。絵本作家として活躍されている内田さんが理事長を務められているということが、協会にとってはさまざまにプラスだったと思います。本当にご苦労様でした。そして、3月の大牟田セミナーがなんとか開けることを祈ります。

④持続化給付金、家賃補助を得る

~上記のように、講座がなくなったこともあり、そのままでは今年度は赤字必死でしたが、持続化給付金200万、家賃補助80万を得ることができ、ホッとしました。経理の宮田さん、ご苦労様でした

⑤新理事3人が加わる

~今期は役員交代の年度でしたが、新たにしめのゆきさん、指田和さん、東野司さんの三人が理事に加わりました。役員の世代交替は協会にとって大きな課題で、今後もどんどん新しい人たちに加わってほしいと思います。

⑥編集長、交替

~協会の役員人事の中で、やはりひとつ焦点になるのは、機関誌編集長です。なんといっても激務です。高橋秀雄編集長は2期4年務めてくださり、この間、いろいろとユニークな特集が組まれました。奥山恵新編集長は、評論家であると共に、子どもの本専門店の店主として、子どもの本を広い立場から見ておられます。来年の1・2月号からが新編集委員会の担当になります。

⑦藤田のぼる、理事長に

~一応、ここに入れました(笑)。7番目にしたのは特に遠慮(?)したわけでもなく、長く事務局長、そして副理事長も務めてきた僕が理事長になったのはニュース性ではかなり低いと自覚してのことですが、自分としてはそうしたキャリアを生かせるよう、努めたいと願っています。

⑧75周年に向けた取り組み

~来年3月に、協会は創立75周年を迎えます。老舗のお店ではないので古さを誇るのは変ですが、やはり創立時の、そしてその後会を支えてきた先輩たちに思いを馳せます。75周年の取り組みについては、年明けにお送りする会報号外でお知らせします。

⑨アルバイターの公募

~5年前になるかな、僕が事務局を退職した際に、それまでの三人体制が二人になったのに伴い、講座関係の実務を、会員の間中ケイ子さんが非常勤の事務職として担当してくださいました。その間中さんが今年度の前半頃までということになり、代わりの方を協会のホームページで募集しました。三人の方から応募があり、この10月から飯島美穂子さんがアルバイターとして、とりあえず週に一度仕事をしてもらっています。講座の開講が元に戻れば来てもらう日を増やすことになるかと思います。

⑩学術会議の問題で理事会声明

~これはまだ記憶に新しいことですが、10月の理事会声明。緊急の理事会声明というのは、かなり久しぶりだったと思います。6人の任命拒否についてまったく答えられないまま国会も終わってしまいましたが、コロナの問題でも、国の政治のあり方がわたしたちの生活に直結することを、改めてまざまざと感じさせてくれた2020年だったように思います。

 以上、なんとか「十大」になりましたね。来年がいろいろな意味で出口の見える年になることを願って、本年最後のブログとします。会員の皆さん、良いお年を!

2020/12/25

20、ベートーベン生誕250年のこと

【今年はベートーベン生誕250年です】

◎コロナ過でも季節は例年通り進み、今年もあと半月です。政府の無策ぶりにはあきれるしかありませんが、今回はぐっと話題を変えてベートーベンです。協会とはまったく関係ない、私的な話になります。

 まあ、NHKぐらいですが、今年はベートーベン生誕250年ということで、いくつかの特集が組まれていますね。本来なら記念コンサートも目白押しだったのでしょうが、コロナでだめになってしまったというのは、なんとなくベートーベンっぽいような感じもします。

◎さて、僕は母や兄・姉たちの影響もあり(三人いる姉の真ん中は、教育学部の音楽科卒)、中学生の時ブラスバンド部員だったこともあり(打楽器担当、途中からタクトも振ったりしていました)、子どものころから一応クラシックファンです。当時はもちろんレコードの時代ですが、我が家には小さな電気蓄音機(なんと古風な響きでしょう)しかなく、中学生の頃、日曜日になると四つほど離れた駅の(ということは、それなりに近い)上の姉の嫁ぎ先まで(遠い親戚でもあったので)押しかけていって、そこにはステレオがあったので、一日中それで音楽を聞いて、夕食をご馳走になって帰ってくる、という時間を過ごしたりしていました。

◎好きな作曲家はドボルザークとベートーベン。「ドボルザーク」という名前を覚えたのは、小学校低学年くらいの時だったと思います。ラジオで「ノボルザーク」と聞こえたのです(笑)。上記のように中学生の時はブラスバンドで放課後には毎日音楽室に向かうわけですが、そこには音楽年表があり、ベートーベンのライオン髪とドボルザークの髯顔が、ちょうど左右で釣り合っている感じでした。まあ、クラシックファンとはいっても名曲コンサートレベルで、ドボルザークはやはり「新世界」、ベートーベンは「英雄」「運命」「田園」といったところが好きでした。

◎高校生の時です。僕は秋田でも農村地帯の田舎でしたし、それまで生のオーケストラを聞く機会はありませんでしたが、高校は秋田市内の高校に入って、家からは遠いので短大に通う(三番目の)姉とのアパート暮らしでした。つまり、秋田市内に住んでいたわけです。秋田市だと年に1、2回はオーケストラがやってきます。ですから、高校三年間で6、7回はオケを聞く機会がありました。そのうちの何回目かは覚えていませんが、初めて聞く曲に釘付け(?)になったのが、ベートーベンの交響曲第7番でした。以来、この曲が今に至るまで僕のベスト1です。

【ベートーベン・好きな曲ベスト10の投票】

◎つい、この前、先週の11日です。金曜日の夜の教育テレビで「らららクラシック」という番組があります。普段は30分ですが、この日は1時間で、視聴者が「好きなベートーベンの曲」を投票し、ベスト10を発表するという内容でした。僕は投票まではしませんでしたが、わが7番が何位になるかと固唾をのんで(笑)見ていました。こういう場合、下から発表していくわけですが、「英雄」は第9位だったか早々に出てきました。そして「運命」が第5位、「田園」が6位と、シンフォニーの番号と同じ順位です。3位、4位は「悲愴」「月光」とピアノソナタが入りました。そして、あとは1位と2位。残るは7番と9番です。「もしかして……」という期待をよそに、やっぱりという感じで第一位は第9でした。「そりゃ、まあ、そうだろうなあ……」と、納得ではありました。

◎ただ、例えば生誕200年の時だったら、7番が第2位ということは、あり得なかったと思います。ベスト10に入ったかどうかさえわかりません。番組の司会の高橋克典さんも言ってましたが、7番がぐっとポピュラーになったのは、「のだめカンタービレ」がテレビで放送され、その主題曲のように7番が使われてからですね。調べたら、この放送が2006年ですから、この曲が一気にメジャーになったのは、ここ14、5年のことということになります。元からの7番ファンとしては、うれしいような、自分だけのものを取られたような、やや複雑な気分でもありますが……。

◎最後に、のだめの主役だった上野樹里さんの話題を一つ。彼女は実は岡田淳さんのファンということで、何年か前に、日本図書教材協会主催のフォーラムで、僕がコーディネーターで、岡田さんときたやまようこさんをお呼びして講演と鼎談をやったのですが、その時上野樹里さんが来ていたらしいです(僕は気がつきませんでしたが)。そういえば、岡田淳さんの作品には、クラシックの曲がとても上手に使われています。例えば、文庫では僕が解説を書いている『雨やどりはすべり台の下で』の第一話「スカイハイツオーケストラ」で使われているのは、チャイコフスキーのバレエ音楽「くるみ割り人形」の中の「花のワルツ」で、実に絶妙な選曲だと思います。そういえば、今年の協会賞、佐藤まどかさんの『アドリブ』も音楽ネタでした。

◎今年も年末の第9のコンサートはあるようですが(オーケストラの一番の稼ぎ時でしょうし)、さすがにちょっと聞きに行くのは怖いですね。合唱隊は例年だとそれこそ“密”もいいところですが、間隔を開けて、まさかフェイスガードとかをつけるのでしょうか。コンサートや演劇に気兼ねなく行ける日が早く来ることを望みます。

2020/12/15

19、協会の今の事務所のこと~児文協昔話2~(2020,12,5)

【今の事務所に移った時のこと】

◎12月になりました。季節の移り変わりは例年のことですが、コロナに明け暮れる今年、カレンダー自体は変わらず進行していくのが、ちょっと不思議なような気もします。

 さて、前回、前の百人町の事務所のことを書きました。今回は、そこから今の神楽坂の事務所に移る時の経緯をお話したいと思います。

 前回書いたように、「メゾン吉田」の2階と3階を借りることになり、小さなアパートとはいえ、合わせると15、6万程度の家賃になったのではなかったかと思います。 それで、これだけ払うのなら、もっとちゃんとした事務所らしいところを借りられるのでは、という話になって、物件を探し始めました。

 最初に候補地になったのは水道橋駅(まだ国鉄だったかな?)近辺で、それは当時児童文学学校の会場にしていた労音会館が近かったから、という理由だったと思います。やや恐る恐る不動産屋を回り始めましたが、家賃はまあまあ払えそうな金額で(多分20万円程度までを想定していたと思いますが)、 ある程度の広さをもった物件でも大丈夫そうでした。ところが、想定していなかったのは保証金の高さでした。アパートなどの場合はせいぜい家賃2ヵ月分程度ですが、都心に近い事務所となると数百万円が相場でした。協会にとってはちょっと無理な金額です。

 ややあきらめかけたのですが、水道橋の隣の飯田橋の不動産屋に行った時だったと思います。飯田橋駅界隈はやはり高い保証金でしたが、一駅離れた地下鉄の神楽坂駅の近くだと、保証金が百数十万円という物件が結構あるのです。今はどうか分かりませんが、 国鉄の駅の近くと地下鉄の駅の近くでは何倍もの違いがありました。神楽坂は、出版クラブがある所ということで、なじみがありました。それに神楽坂を通る地下鉄東西線は、その名の通り、西の中央線方面からも、東の千葉方面から来るにも便利です。そんなことで、神楽坂近辺を探してみようと思ったわけです。

◎何件の事務所を見たでしょうか。どれもピンとこなかったので、別の不動産屋に行ってみると、駅からとても近い所の物件がありました。近いというより駅の隣という感じです。さぞかし家賃が高いかと思うとそうでもなく、保証金もさほどではありません。早速見に行き、ほぼ即決だったと思います。それなりに古いビルで、だから安いのでしょうが、お店を開くわけでもなし、駅に近いというのは、高齢の会員や役員が少なくない児文協にとっては何よりだと思いました。

 ただ、その事務所はまだ空いてはいなくて、少し先に空く予定ということで、その時点ではある宗教関係の団体の事務所でした。確か福島かどこかに本部がある仏教系の団体ということで、責任者の大きなデスクの上には仏像めいたものがあったように覚えています。少なくとも、今の児文協のやや本の物置的な状況に比べて、とても綺麗だったことはまちがいありません(笑)。

 ともかく、そんな経緯で、現在の神楽坂の事務所に移ったわけで、これも前回書きましたが、それが 1981年ですから、もう40年目ということになりました。

【協会の住所のこと】

◎協会事務局の住所は「新宿区神楽坂6-38 中島ビル502」ですが、東京の都区内の住所はほとんど 「〇丁目〇番〇号」、例えば「港区赤坂2―6―15」というふうに、数字が三つ並んでいます。「6丁目 38番地」というふうに数字が二つなのは、一昔、二昔前の住居表示です。これはもう随分前になると思いますが、東京も含め(京都は例外ですが)ほとんどの都市の市街地の住居表示が「〇丁目〇番〇号」 というパターンに変えられた時に、新宿区内でも牛込局管内の住民が、それに対して強力に反対運動を起こしたようです。このあたりはいわゆる文人が多く住んでいて、「地名というのは歴史そのものなのだから、利便だけで変えてはいけない」という主張だったようです。珍しいことだと思いますが、この運動が実を結び、牛込管内だけはかなり旧住所が残されました。

 例えば(二年ほど前に移転しましたが) 協会の総会を行っていた出版クラブは事務所から歩いて6、7分のところですが、住所は「新宿区袋町6番地」でした。また、(今はしばらくリモートになってしまいましたが)理事会などの会場でよく使う 「新宿区箪笥センター」の住所は「新宿区箪笥町15番地」で、他にも肴町(さかなまち)とか横寺町(旺文社があります)といった、昔風の住所が正式な住居表示として今も使われているのです。会報で理事会の会場として「箪笥センター」というのを見て、箪笥を作っている会社の組合の建物かと思っていらした方もいるかもしれませんが、そうしたわけでありました。

◎最後に思い出話をもう一つ。神楽坂の事務所に移って最初の理事会の時です。当時は藤田圭雄会長、 関英雄理事長でしたが、それまで知りませんでしたが、藤田会長は牛込のお生まれで事務所から10分ほどの愛日小学校が母校、関理事長は少年時代に神楽坂に住んでいたことがあり、関東大震災(なにしろ話が古いですが)当時、ここで被災したのです。このことは、関さんの自伝的作品で協会賞を受賞した 『小さい心の旅』にも描かれています。というわけで、理事会が始まる前、二人がとても懐かしそうにそういった話をされているのを聞いて、「ああ、神楽坂にして良かったな」と思ったことでした。当時からすでに古いビルでしたから、いずれ建て替えという問題は起きるでしょうが、できれば便利のいいここにずっといたいものだと思っています。

2020/12/05