藤田のぼるの理事長ブログ

2020年6月

3、『日本児童文学』編集長のことなど(20,6,25)

 

【新理事会で】

◎6月22日の月曜日、新メンバーによる総会後初めての理事会が、やはりウェブ会議の形で開かれました。協会の役員は2年任期で、偶数年の総会は理事・監事を選出し、活動方針案を策定する、言わば「表の総会」の年になり、奇数年はそれがない「裏の総会」になります。今年はその「表」の方だったわけですが、この年の6月理事会は、常任理事を選出すると共に、各部の部長(および委員会の委員長)を決めるのがメインになります。協会には組織部など10の部と二つの委員会があります。

 やはりどの部もある程度の経験が求められる面があり、かつては同じ人がずっと一つの部の部長を続けるというケースもあったのですが、それはそれで弊害もあり、ここしばらくは、「二期(4年)務めたら交替」という原則でやってきました。但し、国際部のように、特別な知見が求められる部もあり、「原則として」ということになりますが。

◎部長が決まると、その部長から部員に入ってほしい人をあげてもらい、これを7月理事会で調整し(あまりダブったりしないように)、部員の委嘱をします。ですから、新しい部・委員会の体制ができるのは(お断りがあったりで)8月一杯くらいまでかかります。一方で、前の部が企画していたイベントなどもあるわけで、6月から10月くらいまでは、新しい部と前の部とが並行して仕事をすることになり、会議の数も増えますし、その間の引き継ぎや調整ということも必要になってきます。

 それで、今コロナでリアル会議ができにくくなっている中で、各部の体制が大きく入れ替わるのはいろいろ支障が出てくることも予想され、今回だけは「二期4年で交替」という原則を外して、基本的に前部長に続けてもらうことにしました。ただ、部長の中でもっとも“激務”といえる機関誌部長(『日本児童文学』編集長)は、高橋秀雄さんがすでに二期務めていて、さらに続けてほしいというのは無理があり、ここは新しい方にお願いしようということになりました。

 この結果、新編集長には奥山恵さんが推薦され、空席となった研究部長には、理事に復帰された河野孝之さんが、そして濱野京子さんが理事から降りられたので、濱野さんが委員長だった子どもと平和の委員会は、西山利佳さんが新たに委員長を務めることになりました。他の部・委員会はすべて再任、また常任理事についても、加藤純子副理事長を含めて留任となりました。

【『日本児童文学』編集長のこと】

◎ということで、来年の1・2月号から奥山編集長を始めとする新しい編集委員会の担当になります。この編集企画の仕事はすぐにも始めなければならず(従って、機関誌部だけは7月理事会を待たずに先に発足します)、上記のようにしばらくは(11・12月号まで担当する)旧編集委員会と新編集委員会が並行して仕事を進める形になります。ちなみに、1・2月号が例年創作特集なのは、新しい編集委員会が(最初の号で)あまり企画で悩まなくても済むように、という含みもあります。

◎奥山さんが編集長を引き受けますと話してくれている画像を見ながら、僕は自分が編集長を引き受けた時のことを思い出していました。1992年ですから、今からもう28年前のことです。話がいちいち古いですが、さすがにまだ生まれていなかったという会員はほとんどいないですね(笑)。

『日本児童文学』が今のように、隔月刊・自主発行の体制になってからすでに20年以上になりますから、月刊で出ている時代を知る人もぼちぼち少数派かもしれませんが、当時は文渓堂が発行元で、月刊でした。実はその二年前、1990年の時にも理事会で編集長就任を求められたのですが、固辞しました。自信がなかったからということもありますが、(この時はちょうど40歳でした)“若手”に仕事をおしつけてなにもフォローしない協会の体質に反発を覚えていた、ということもありました(まあ、いろいろあります)。それで、2年後にはさすがに引き受けたわけですが、やはり一番に考えたのは、どなたに編集委員をお願いしようかということでした。真っ先に思いついたのは、相談相手としてぜひ編集委員会に入ってほしいと思った宮川健郎さんでした。ただ当時彼は宮城教育大学の先生で仙台に住んでいたわけですが、評論仲間として若い頃からの友人でもあり、なんとかお願いできました。編集長として僕が考えていたことの一つは、創作、ノンフィクション、詩、評論、読書運動といったジャンル同士の交流を図りたいということで、そういうモチーフから、先輩で抜群の人脈を持つ砂田弘さんを顧問役に、きどのりこ、国松俊英、重清良吉(亡くなられましたが、すぐれた詩人であり、創作に対しても深い造詣をお持ちでした)、そして(読書運動のベテランであると共に作家でもある)山花郁子の皆さんに委員をお願いしました。今思い出しても、ベストメンバーだったな、と思えます。

◎編集委員会時代の一番の思い出は、仙台・秋保温泉での編集会議でしょうか。いつも宮川さんに東京に来てもらうので一度はこちらから行こうということで、仙台での編集会議となったのです(言うまでもなく、みんな自前です)。これが特に印象深いのは、その時に話し合われた特集が安房直子さんの追悼特集になったことで、確か仙台の会議が先に決まっていて、安房さんが亡くなったことを受けて急きょ追悼特集になったのではなかったかな。安房さんが10歳から13歳までを仙台で過ごしたというのも、この時に初めて聞かされてびっくりしたのではなかったかな。そしてこの特集の年譜で、初めて母の安房久子さんが実の母ではなく叔母であったことが公表されたのでした。93年10月号でした。

 最後は昔話となりましたが、奥山新編集長、そして新編集委員会を、よろしくお願いします。

 

2020/06/25

2、総会を終えて今は/児文協と僕の出会い(20,6,15)

【総会を終えて、今は……】

◎「理事長ブログ」2回目になります。実は、1回目は6月5日にアップしようと準備していたのですが、事務局長ブログ時代から大分間か空いてしまって、アップの仕方があやふやだったので、10日に事務所に行った際に、次良丸さんに確認してもらい、ようやくアップしました。事務所に行って驚いたのは、機関誌版元である小峰書店の小峰広一郎社長から「理事長就任祝い」のとても立派な花籠が届いていたことで、せっかくなので、花と一緒に写真を撮ってもらいました。それはともかく、5日にアップできなかったことで、総会報告としてはやや遅くなってしまいましたが、今回は、当初の予定通り15日です。僕としてはできれば10日に1回、5のつく日に更新していきたいと思っています。5時55分生まれで(本名は「朝日が昇るころ」で「昇」です)、5が一応ラッキーナンバーなので(笑)。

◎さて、協会の〈今〉としては、総会で選出された新理事による最初の理事会を、22日に予定していて(今回もウェブでの会議になりますが)、ここで各部・委員会の部長(委員長)が決まります。部員・委員の決定は次の7月になりますが、そのあたりから新体制が動き出すことになります。次回のブログは、第1回理事会の報告がメインになると思いますが、今回は自己紹介がてら、僕と児文協との出会いについて(前回予告したように、いかにも「昔話」ですが)少し書かせてもらいます。

【児文協と僕との出会い】

◎その前に、今更の話ですが、「児童文学者協会」を略して「児文協」です。これに対して、「児童文芸家協会」は「児文芸」です。(似ていますが、「略」のポイントが違っています。)それから絵描きさんの団体である「児童出版美術家連盟」は「童美連」です。この3つが子どもの本の著者団体ということになりますが、子どもの本の世界では、国際交流組織である「日本国際児童図書評議会」も、翻訳家や編集者だけでなく、作家・画家・研究者も含めた著者団体の性格も持っていて、こちらの略称はJBBYです。

◎さて、僕の学生時代は1970年をはさむ時期で、いわゆる学園紛争が盛んな時期でした。僕は秋田の生まれで、大学も秋田大学教育学部でしたが、68年に入学してまもなく、学園封鎖(ロックアウト。もちろんコロナではありません。警察が学内に無断で入ったことがきっかけだったか)があり、夏休みまで授業がありませんでした。そんな中、秋だったと思いますが、学生寮の友人の部屋で、たまたま斉藤隆介の『ベロ出しチョンマ』という本を手にしたのが、児童文学との出会いでした。その中の「八郎」という作品は(一般には絵本でおなじみですが)秋田弁で書かれていて、僕は自分が育ってきた言葉で、こんなにも深いことが語られるのか、ということに衝撃を受けたわけです。

 それから一年ぐらいしたころでしょうか。これもたまたま僕は書店で『日本児童文学』という雑誌を目にしました。つまり、当時は秋田の書店の店頭にもこの雑誌が置いてあったのです。以来、この雑誌が僕にとってはバイブルのようになり、まわりに児童文学をやっている人は誰もいませんでしたから、ひたすらこの雑誌で勉強しました。が、なにしろ授業にはろくに出ていなかったので、一年留年することになりましたが、その年に、一年生が何人か集まって、僕が半分顧問のような感じで「秋田大学児童文学研究会」というのを作りました。僕は一年生たちに『日本児童文学』の購読を強要?し、それもなるべく違う書店で取らせるようにしました。そうすれば、その書店で、僕のように、この雑誌と出会う人が出てくるかもしれない、と思ったからです。なんと、今から50年近く前のことです。

 つまり僕は、学生時代に勝手に『日本児童文学』秋田営業部長(?)をやっていたわけで、それからいろいろありましたが(それも折々書かせてもらいますが)、あの頃秋田で一人で『日本児童文学』を読んでいた自分、というのが、協会との関わりの“原点”ということになるでしょうか。

◎これを書いている間に、れいわ新選組の山本氏が都知事に立候補とか。遅いよね、さすがに。でも、選挙はわからないよ、最後まで。

2020/06/15

1、総会報告と理事長就任の弁(20,6,10)

【ウエブ総会が無事に終了】

◎5月30日(土)、協会にとってはもちろん初めての試みでしたが、例年の定時総会を、今年はウェブ会議の形で開催しました。一般社団法人として、毎年必ず決算や予算、事業計画などを総会で決定、承認することは定款で定められており、「今年は都合が悪いからやりません」という選択肢はなかったわけです。とはいえ、コロナの関係で、今年度については、延長や文書での開催などもOKということは、総理府から示されていました。

 児文協としては、3月頃の時点では、会員の方には無理に出席していただかず理事を中心に集まって、後は委任状で総会を成立させるというパターンを考えていました。しかし、4月に入って理事が集まること自体もリスクが小さくない(なにしろ僕も含めて“高齢者”も多く)という状況になり、極端な話、事務局でごく少人数で開催してあとは委任状という形式も考えましたが、このあたりから文学賞の選考委員会や理事会をウェブ上で開く試みがまずまずうまくいったので、総会もウェブ会議で開催してみては、という話になりました。

 とはいえ、実際にどの程度の方が参加してくださるだろうかという懸念もあったわけですが、蓋を開けて見ると80名を越える参加申し込みがあり、むしろ例年の総会よりも多い数になりました。ただ、そうなると今度は、その人数でのウェブ会議が果たしてうまくいくかどうかという心配が出てきて(それまでは数人か精々20人程度まででしたから)、当日の開始を迎えるまで、「大丈夫だろうか」という思いがぬぐえませんでした。

◎結論的には、とても大丈夫だったわけで、北は北海道の三浦幸司さん、升井純子さん、南は沖縄の新垣勤子さんまで80人近い方が参加され、「こういう形なので参加できた」「来年からも、こういう形を考えてください」という意見も出されたほどでした。とはいえ、この人数ですから、実際に画面に登場し、ご発言いただいた方は限定されましたが、ご参加いただいた皆さん、どうもありがとうございました。そして、このウェブ総会を準備するに相当のエネルギーを使った事務局長の次良丸さん、情報ネットワーク部の榎本さん、そして議長を務めていただいた西山さん、大変にご苦労様でした。

◎総会の報告は、7月初めに発行の会報で詳しくなされますが、ここでは役員交代についてご報告しておきます。今回の総会で、前期の理事のうち内田麟太郎理事長を始め、一色悦子、中川なをみさん、原正和さん、濱野京子さん、山崎玲子さんの5人が退任されました。4年間理事長を務められた内田さん、本当にご苦労様でした。仕事の分野でも人間的にも幅の広い内田さんのおかげで、大分児文協のイメージアップが図られたと思います。また、一色さんは数少ない支部出身の理事として、組織部、会報部、子どもと平和の委員会などで力を発揮していただきました。中川さんは、今関信子さんと共に関西センターの立ち上げに尽力されました。原さん、濱野さん、山崎さんは、また立場を変えて、協会の仕事を続けていただけると思います。そして、今回は河野孝之さんが理事に復帰され、指田和さん、しめのゆきさん、東野司さんの3人が、新たに理事に選出されました。

なお、監事は2名のうち真鍋和子さんが今回退任され(間中さんは再任)、新たに山口理(さとし)さんが就任されました。真鍋さんは理事の時期も含め、長く役員を務めてこられました。新監事の山口さんはウェブ会議で、愛犬と共に就任のあいさつをされました。

【藤田が新理事長に選出されました】

◎そして、総会の途中で第1回理事会が開かれ(といっても、これもウェブ上ですが)、僕・藤田のぼるが新たに理事長に選出されました。僕は長く事務局長、そして副理事長を務めてきましたが、組織のトップである理事長というのはいかにも似合わないという自覚はあるのですが、この状況の中でそうも云っておられず、自分で言うのもどうかと思いますが、「実務型」の理事長として、僕なりに関わっていければと念じています。その手始めというか、事務局長時代にこの場で「事務局長ブログ」という形で発信していましたが、今回から「理事長ブログ」と看板を変えて、協会の今をめぐるあれこれや、時には児文協の“昔話”などもお伝えしていきたいと思っています。どうぞ、よろしくお願いいたします。

2020/06/10