藤田のぼるの理事長ブログ

2020年8月

9、野球(ロッテ)の話(2020,8,25)

【今年のプロ野球は……】

◎関心のない方には誠に恐縮な話題ながら、日本のプロ野球の話です。今年はコロナのせいで開幕が2ヵ月近く遅れ、しばらく無観客でしたが、今は観客を5千人にしぼって試合をしています。球場は一番収容人数が多い東京ドームで4万6千人、少ない千葉のロッテのマリンスタジアムで3万人ほどです。 そこに5千人ですから、かなりディスタンスは取れるというものの、コロナは大丈夫かと懸念されますが、今のところ野球場で感染といった問題は起きていないようです。

◎ということで、例年よりも少ない試合数でペナントレースが進められているわけですが、セリーグは早くもやや巨人の独走状態、パリーグは混戦模様になっています。そしてこの前の21日の金曜日ですが、ロッテがソフトバンクに勝って単独首位に立ったのですが、これが(8月の段階で首位になったことが)なんと「50年ぶり」ということでニュースになりました。うれしいというよりも、恥ずかしいですね、ファ ンとしては。前の7月5日付のブログにちらっと書きましたが、はい、僕はロッテマリーンズのファンですが、50年どころではありません。ファン歴60年というすごさ(?)で、なかなかいないと思います。

【なぜ、ロッテファンに?】

◎上記ニュースの「50年前」というのは、そもそもまだ「ロッテ」ではなく「東京オリオンズ」で、多分金田監督の時代だと思います。僕はその十年前ですから、ファンになったのは小学生の時です。当時、秋田の田舎の子どもは90%が巨人ファン(テレビは巨人戦しかやらないし)、残りが親の影響などで、 阪神ファン、南海ホークスファン等々というくらいで、「大毎オリオンズ」ファンの小学生など、秋田県全部でも10人はいなかったのではないでしょうか。実は自分でもなぜファンになったのかはっきり覚えてないのですが、オリオンズは「10年毎に優勝する」というジンクスがあって、1950年、60年、 70年と優勝しています。その1960年は僕が10歳なわけで、当時『少年サンデー』『少年マガジン』が創刊されて間もない頃でした。そこに優勝の特集記事が載り、惹きつけられたのではないかと思います。それ以外、考えられません。ともかく、そんなわけで、ロッテ一筋60年なわけです。

【児童文学界とロッテ】

◎今の千葉に移る前の、“伝説”の川崎球場のことなど(なにしろ人が入らなくて有名でした)、書きたいエピソードはいろいろあるのですが、ここは自重(?)して、「児童文学界とロッテ」ということで お話したいと思います。児童文学の世界で僕以外にロッテファンとして知っているのは(当然、数は少ないですが)6人ほどいます。

 まずは皿海達哉さん。皿海さんは広島県生まれですから元々は広島ファ ン。それが東京で過ごした学生時代、同人誌仲間の日比茂樹さんの影響でロッテファンになりました。ちょうど50年前の金田監督の時代だと思います。当時のことを皿海さんに語らせたら、3時間くらいの独演会になります。

  そして、児文協元会長の砂田弘さん。砂田さんは山口県出身で元々は福岡の西鉄ライオンズファンでしたが、千葉のロッテ球場から近い所にお宅があった関係で、ロッテファンになりました。その砂田さんを、一度だけ球場でお見かけしたことがあります。お嬢さん(当時小学校高学年か中学生くらいか)と一緒でした。砂田さんという人は、気難しいというかシャイというか、めったに笑顔など見せない人でしたが、その時のお顔は僕が見たことのない柔らかな表情でした。

  ここからはイニシャルになりますが、中部児童文学会のNさん。協会事務局にいらした折に、ふと気がつくとロッテのクリアーファイル(だったと思います)をテーブルの上に置かれたのです。僕がロッテファンと聞きつけて、「私もです」というサインを出してくれたわけです。もうお一人、会員のMさん。やはり球場で帰り際バスを待っていた時にばったりお会いしました。

◎そして、最後の一人は三田村信行さんです。僕は三田村さんとは面識がなく、はじめてちゃんとお会いしたのは、上記砂田弘さんの評論集の出版パーティーの折でした。二次会の時にすかさず隣に座った僕は、三田村さんに「好きな球団はありますか?」と尋ねたのです。三田村さんの作品のなかに野球の話もあるので、そう聞いたわけですが、ある予感としては“こういう作風の人は、まさか巨人ファンではないだろう”という、思い込み的予感もありました。すると三田村さんが「ありますが、恥ずかしくて言えません」とおっしゃるので、「では、僕から言います。ロッテです」というと、「私もです」とお っしゃったのですが、あとから「えっ、ロッテって、恥ずかしくて言えない球団?」と一人で笑えまし た。

 なお、ついでに(?)お知らせすると、協会事務局は、次良丸さんが(名古屋出身なので)中日ファン、宮田さんはお父さんの影響で巨人ファンです。随分昔のことになりますが、次良丸さんが事務局に勤めて間もない頃、東京ドームにロッテ対日本ハムの試合を一緒に見に行きました。日ハムが北海道に行く前で、東京ドームがフランチャイズの時代です。僕が「ロッテファン、結構いるでしょ」と自慢(?)したら、「これで全員じゃないですか?」と切り返されて、これも笑えました。

  さて、これを読んで、「私もです」とおっしゃる方は、恥ずかしくありませんので(笑)、どうぞご一報く ださい。(そういえば、会員のどなたかからそのように聞いたような覚えも。抜かして、ごめんなさい。)

2020/08/25

8、終戦記念日に~「最後の空襲」の話(2020,8,15)

【最後の空襲とは】

◎75年目の終戦記念日です。児文協の創立75周年も7ヵ月後ということになります。もっとも、8月15日が「終戦記念日」であることを即答できる日本人の割合も結構減っているのかもしれません。

  さて、僕はここ数年、その前日の14日のことを追いかけてきました。1945年8月14日です。この日、日本はポツダム宣言受諾を連合国側に通告し、翌日の天皇によるいわゆる玉音放送となるわけですが、アメリカ軍による日本への空襲は、8月14日深夜、いや15日未明まで続けられました。「ついで」の所を含めると、かなりの箇所になりますが、この日の主な爆撃目標は、小田原や熊谷、山口県の岩国、愛知県の豊川、群馬県の伊勢崎などで、熊谷は埼玉県でほぼ唯一の本格的な空襲被害として記録されることになりました。

  これらの町と並んで目標となったのが、秋田の土崎という町です。爆撃は未明の3時過ぎまで続いたといいますから、まさに「最後の空襲」です。土崎は、今は秋田市に含まれていますが、日本海に面した港町で、秋田市と土崎の関係は、東京と横浜といったところでしょうか。秋田市ではなくなぜ土崎がターゲットになったかといえば、当時秋田には油田があり、その精製工場やタンクが土崎にあったからです。日本で石油が獲れていたことを知る人は少ないでしょうが、新潟や秋田には油田があったのです。一説には、終戦になってもそれを認めない一部の部隊が飛行機でやぶれかぶれの特攻攻撃をかけてくるのを阻止するため、飛行機燃料をなくそうとして……という話もありますが、これは後付けのような気がします。アメリカ軍は当初の予定通り、14日夜の空襲をやめなかった、ということでしょう。

◎街とは少し離れた石油タンクが狙いということで、人的な被害は熊谷などに比べると少なかったのですが、それでも子どもを含む250人以上の人が犠牲となりました。よく広島や長崎の原爆に対して、「せめてあと十日(あるいは一週間)早く戦争が終わっていれば……」という言い方がありますが、14日夜の空襲で家族を失った人たちの悲しみは、本当にやり場のないものだったのではないでしょうか。そして、その悲しみ、怒りは、日本は(明らかに敗戦は必至だったのに)なぜもっと早く戦争を終わらせることができなかったのか、という問いにつながるはずです。そうしたこの戦争の不条理をある意味象徴しているのが、「最後の空襲」であるようにも思えるのです。

【空襲の絵本を】

◎この土崎空襲について、僕はほとんど知りませんでしたが、十年ほど前からとても気にかかるようになり、(戦後70年の)五年前に、その二十年前(つまり戦後50年の際)に作った絵本『麦畑になれなかった屋根たち』(永島慎二・絵)を再刊してもらったのを機に、なんとかこちらも絵本にできないかと思うようになりました。奇しくも、『麦畑~』は、B29による本土への初空襲(東京・武蔵野の中島飛行機の工場が目標でした)を題材にしており、こういう言い方は不謹慎かもしれませんが、初空襲と最後の空襲を絵本にすることができたらいいな、とも思ったわけです。

 そして、本来なら、このページで絵本の刊行を報告できる予定だったのですが、絵の方が間に合わず、先延ばしとなりました。実は絵をお願いしたのは、「味いちもんめ」などで知られる漫画家の倉田よしみさんで、倉田さんは同じ秋田でも、まさに土崎のご出身。そして後で知ったわけですが、僕の高校の後輩でもありました。その倉田さんの絵で絵本ができるのは僕にとっては願ってもなかったことで、「75年目の8月」を逃したことは残念ですが、絵本ができましたら、このページでも紹介させていただこうと思います。

2020/08/15

7、ラジオに電話出演しました(20,8,5)

【結構ドキドキでした】

◎ようやく梅雨は開けましたが、コロナ禍は開けないどころか、ますます先行き不透明ですね。協会の事務局は、機関誌発行の実務などの関係で、全面テレワークにはできないのですが、勤務の曜日や時間を見なおすなどの体制を取ることにしました。

  さて、前回(臨時号?)のブログでお伝えしたように、昨日、8月4日の夕刻、茨城放送のFMラジオに電話出演しました。繰り返しになりますが、コネクト(つながる、という意味ですかね)という番組の中の「日本アソシエーツ図鑑」というコーナーで、6時15分から15分ほどパーソナリティの質問に答える形で、児童文学者協会について、そして児童文学や読書について話をしました。こうした形の“生出演”は初めての経験でしたが、目の前のパソコンは協会のホームページにして(聞かれて分からないことが出てきた時の用心に)、茶碗に麦茶を半分くらい入れて、スタンバイです。

 3分ほど前にディレクーから電話がかかってきて、「そのままお待ちください」ということで、電話口からラジオの放送が聞こえ、やがて「藤田さーん」という呼びかけが聞こえました。そこまで結構ドキドキでした。

【番組では……】

◎その30分以上前から、FM水戸局に合わせて番組を聞いていたのですが、「今日のアソシエーツ(協会)は児童文学者協会です」ということで、リスナーから児童文学にまつわる思い出を募集していたらしく、それがいくつか紹介されていました。その点では雰囲気としてはウェルカムだったわけですが、逆にあまり細かいことを聞かれても困るな……と、小心者の心配はつきません。

 実際には、結構基本的な質問で「そもそも児童文学というのは、どういう定義なのですか?」「児童文学者協会というのは、作家団体ということですか?」「協会の創立は?」といったことから、「藤田さんが児童文学に関心を持ったきっかけは?」といった僕自身についての質問、そして後半は「読書というのは、どんな意味があるとお考えですか?」といった、読書をめぐる質問が続きました。気がつくと、結構気持ちよくしゃべっていて、15分に近くなっています。知らず知らず、こちらがしゃべりやすいように誘導してくれる感じで、プロの聞き手というのはさすがだなと思いました。

◎もう15分間近になって、「最後の質問です」ということで、「児童文学者協会として、今後どんなことに力を入れていきたいですか?」と聞かれ、これはまったく予想していない質問だったのですが、「若い書き手を育てたいことです」という答がすんなり出てきて、自分でも「ああ、そうなんだ」と思えました。それで僕は無事にお役御免。電話がさっきのディレクターに変わり(若い女性という感じでしたが)、「ありがとうございました。私も本が好きで、それで今回お願いしたんです」と言ってくれて、うれしい気持ちで電話出演を終えることができました。

◎せっかくなので、再びラジオをFM水戸局に合わせて、番組の続きを聞いていたのですが、まもなくエンディングとなり、リスナーからのメールがいくつか紹介されました。その中で「わたしも児童文学者協会の会員です」というメールがあり、びっくりしたのですが、聞いていたら、どうやらそれは茨城県民で詩人の小泉周二さんでした。そして、彼の最新詩集「たたかいごっこ」のタイトルと、その解説を書いているのが「藤田のぼるさんです」ということも紹介してくれました。小泉さんは友人でもありますが、僕が大好きな詩人で、今年4月に出た詩集の解説を書かせてもらったのです。そんなこともあり、彼にはこの出演のことをメールで知らせていました。ちょっとサクラっぽかった(笑)嫌いはあり ますが、結果的に詩集のこともアピールできて、良かったです。

  あとで録音したCDを送ってもらうことになっているので、読書のことなど、自分がどんなふうに話したのか、改めてちゃんと聞いてみようと思います。そして「若い会員を育てたい」という言葉がウソにならないように、取り組んでいきたいと思ったことでした。

2020/08/05