藤田のぼるの理事長ブログ

2021年12月

55、初めてのインタビュー(2021,12,27)

【更新が遅れました】

◎25日に更新するはずが2日遅れとなりました。新年発行の「Zb通信」号外の年頭のあいさつで、25日付と〈予告〉してあるので(あいさつ文を書いたのは23日だったので)、このブログを初めてご覧になっている方もいらっしゃるかも知れませんが、のっけから日付が違っていて恐縮です。25日は所属する児童文学評論研究会の例会(リモートでしたが)で、久しぶりにレポーターをやり、前日その準備に一日使い、25、26日と、娘一家が去年の5月に生まれた孫を連れて遊びに来てたりしたので、今日になりました。

 初めての方のために、改めてお伝えすると、このブログの更新を10日に1回としているのは、それくらいのペースの方が長続きするだろう、と思ってのことですが、それを「5の日」としているのは、これが僕のラッキーナンバーだからで、昭和25(1950)年3月5日、午前5時55分生まれ、名前の「昇」は、生まれた時間が「朝日が昇る頃」から来ています。そんなわけで、5の日です。特に今回は、このブログが「55回」でしたから、記念すべき会?になります。

◎回数と言えば、上記の評論研究会ですが、今回が第558回でした。毎月最終土曜日にやっているのですが、これを12で割れば46,5。つまり47年間続いている会なのです。僕は71歳ですから、47を引くと24。つまり、僕が24歳の時に始まった会です。この成り立ちには、今日のテーマである「初めてのインタビュー」の古田足日さんが関わっていますが、この時のメンバーで今も残っているのは僕の他に細谷建治さんと宮川健郎さんで、宮川さんがまだこの時19歳の学生でした。評論研についてはまた書く機会があるかと思います。ちなみに、今回のテキストは『日本大空襲「実行犯」の告白~なぜ46万人は殺されたのか~』(鈴木冬悠人・著、新潮選書)という本(児童文学ではありません)で、太平洋戦争の後期に使われたアメリカ軍の爆撃機B29のパイロットや関係者へのインタビューのテープが〈発見〉されたということで、それを題材にした本でした。

【そして、初めてのインタビューです】

◎さて、ようやく今日のテーマですが、そのB29関連のインタビューのことではありません。これがもちろん今年最後のブログなので、何か書き残したことはなかったか、今年初めて体験したようなことはなかったか、と考えて、結構最近なのですが、初めて本格的なインタビューを受け、それが画像として記録されるという体験をしたことをお伝えしたいと思いました。

 それは11月28日のことで、場所は東京・小平市の白梅学園大学の図書館でした。なぜそこで? 何のインタビュー? というところで、上記の古田足日さんが関わってきます。古田さんは、協会の元会長で、一般には『宿題ひきうけ株式会社』『おしいれのぼうけん』などで親しまれていますが、戦後日本の児童文学界を代表する評論家でした。 その古田さんは2014年に亡くなられたわけですが、これは古田さんに限りませんが、文学者(あるいは研究者)が亡くなった後で困ることの一つは、残された資料をどうするか、ということです。資料とか蔵書というのは、本人がいればこそかけがえのない財産ですが、亡くなった後は、はっきりいえばかなりジャマなものでもあります。僕も時々ご遺族から「資料や本をどこかで引き取ってくれないだろうか」というご相談を受けるのですが、よほど珍しいものでない限り、まず引き取り手はありません。

◎古田さんの場合は、作家でもあり、評論家でもあり、戦後児童文学の第一線で長く活躍してこられ、また社会的な活動も様々にされていたので、古田さんの所にしかそろってないような資料が結構ありました。これについては、幸い神奈川近代文学館に引き取ってもらえることになり、まずは良かったのですが、問題は蔵書でした。なにしろ古田さんの蔵書は3万冊以上あったのです。

 しかし、これも幸い、子ども学部のある白梅学園が受け入れ、それだけでなく、これを資料として古田足日の業績を検証し、顕彰する「古田足日研究プロジェクト」を立ち上げてくださいました。これには、学外から、宮川健郎さん、佐藤宗子さん、西山利佳さんも協力しています。資料の行き先としては、これ以上は望めないような所が実現したわけです。そして、そのプロジェクトの事業として、古田さんに縁りのある10人ほどにインタビューをして、それを画像として資料に残すという仕事を今年から始めました。古田夫人の文恵さんを始め、『おしいれのぼうけん』などに編集者として深く関わった童心社の酒井京子さんや、古田さんが主宰していた「古田塾」のメンバーなどが、その対象になっていて、僕もその一人としてインタビューを受けることになったわけです。

◎僕と古田さんとの関りは、もちろん事務局員として長く古田さんと仕事をしてきたという面もありますが、そもそも学生時代に古田さんの評論集を読んで強く影響を受け、創作と評論の両方を書きたいと思ったわけで、その出会いがなければ、評論家にはなっていなかったろうと思います。秋田から東京に出てきて2年目に、ある講座で古田さんの講義を聞き、その後お茶を飲んだ席で「評論を書いてます」という話をしたら、後でハガキが来て「書いたものを見せてほしい」というのです。なにしろ大学を出て2年目で、まともなものといったら卒論くらいしかありません。そして、その(ものすごく長い)卒論の最後の部分は古田足日論でした。でも送ったのは山中恒の『赤毛のポチ』という作品について論じた部分でした。そしたら、そのままという訳にはいかないが、少し書きなおせば『日本児童文学』に載せられる、というので(本当ですか、みたいな話でしたが)、本当に載ったのが(1974年10月号)、僕の『日本児童文学』デビュー、24歳の時でした。同じ号に、細谷建治や当時の若手の評論家が何人か使われており、それが上記の評論研究会の始まり(ちょうど同じ頃に、協会主催の評論教室があり、それを受講していた宮川さんたちも合流し)という次第でした。

 ということで、そんなことや、事務局員から見た理事の古田さんについてなど話していたら、あっという間に1時間が経ってしまって、すぐ目の前にカメラがあるわけですが、緊張する暇もない感じでした。そんなわけで、自分がしゃべったことが、大学の図書館にアーカイブとして残るという経験はもちろん初めてでしたし、それが自分の児童文学の言わば原点ともいえる古田足日のことであったというのは、ぼくにとってもとても幸せな体験でした。

 ということで、次回は来年の1月5日(予定!)になります。皆様、どうぞ良いお年を。

2021/12/27

54、再びリモートのこと、そしてハワイとアロハシャツ(2021,12,15)

【評議員会が開かれました】

・先般(7日)、12月理事会と合わせて評議員会が開かれました。「評議員(会)」というのは、理事(会)と違ってあまり馴染みがないと思いますが、理事会の諮問機関という位置づけの役職です。実際には元理事(監事)、支部関係を含む地方の、なんというか有力会員、つまり首都圏にいれば理事をお願いしたいけれど遠方で無理なので……というような方たち、そして首都圏ではあるけれど他の団体の中心的な役割をされていて、やはり児文協の役員は無理……というような方たちで構成されています。理事会だけで結論を出しにくいような場合、そういう方たちの意見をうかがって参考にさせてもらう、というような位置づけで、だから「諮問機関」なわけです。ただ、そういう相談事がそう度々あるわけではないので、通常は2年に1回、大体任期2年目の12月に、理事会と合わせて開催しています。12月にしたのは、その後忘年会をという含みもあったわけですが、今回はもちろんそれは抜きでした。

・上記のように、評議員は地方の方が多いし、今は必ずしもそうではありませんが、相対的にご高齢の方が多い、ということもあって、これまでは実際に出席されるのは数人、という程度でした。ところが、今回はリモート開催だったので、北海道支部の三浦さん、鹿児島支部の齊藤きみ子さん、沖縄支部の池宮城さん、そして広島の中澤晶子さん、大阪の令丈ヒロ子さんといった遠方の方たちを含め、13人が出席されました。僕が知る限り、この参加人数は驚異的新記録で、なんといってもリモートの威力でした。前回、リモートは恐いという話をしましたが、怖いけどすごい、というのを改めて実感しました。

【そして、ハワイの話】

・12月8日は太平洋戦争の開戦記念日で、NHKを中心に結構特集番組が多かったですね。僕は2年前の12月初め、ハワイにいました。娘の結婚式のためです。今思えば普通に外国に行けるぎりぎりのタイミングでした。僕の渡航歴(?)はきわめて乏しく、大分前にアジア児童文学大会で一度韓国に行っただけです。お金がない、ということもありますが、特に行きたいとも思わない、同じお金を使うなら、国内旅行でゆっくりしたほうがいい派、というところでしょうか。だから、ハワイに行くなどということはまったく想定していませんでしたが、娘の結婚式とあっては話は別です。そして、いざ行くとなれば、やはり楽しみでもありました。といっても、海で遊びたいとか、ショッピングを楽しみたいといった希望はありませんでした。ただ、ハワイに行ったなら、一ヵ所行きたいところがありました。真珠湾、パールハーバーです。

・僕の父親は海軍の職業軍人で、終戦時海軍大尉でした。といっても、真珠湾攻撃には参加していません。ただ、山本五十六の部下(のはしくれ)だったので、立案関係の雑務くらいは関わっているかもしれません。父は海軍兵学校に入りましたが、旧制中学から(エリートとして)入学したわけではなく、選抜学生といったか、要するに兵からのたたきあげで(すさまじい倍率をクリアーして)兵学校に入学したのでした。ですから、その時点ではすでに結婚していて、兄たちも生まれていたのだったと思います。

 海軍兵学校には「卒業航海」というのがあり、どういうコースだったか定かではありませんが、真珠湾にも立ち寄ったのです。もちろん開戦前のことです。戦後は公職追放で大分苦労して、僕が物心ついた頃はただの田舎おやじでしたが、家にはその時のお土産があったり、父からハワイに上陸した時の話 (一応英会話をしたのが印象的だったようです)を聞かされたりもしました。ですから、父の思い出として、真珠湾に行ってみたかったわけです。

 結婚式の前の日に行ってみようと、ホテルの日本人スタッフに、行き方などを聞いてみました。そしたら、行くのはバスで行けるが、この時期は、行ったとしても記念館にはとても入れないよ、というのです。つまり、12月8日が間近なその時期になると、アメリカ人の観光客で、真珠湾はいっぱいになるというのです。ちょっとびっくりしました。例えば、8月6日の広島で、ホテルがなかなか取れない、というようなことでしょうか。つまり、“Remenver Pearl-Harbor”というのが生きているのですね。びっくりもし、ちょっとショックでもありました。

 大した買い物もしませんでしたが、それなりの値段のアロハシャツを一枚買いました(それで、結婚式に出ました)。アロハシャツにはちょっと思い入れがあって、僕が事務局にいたころの藤田圭雄会長(同じ姓ですが“他人”です)は、夏のゼミナールやサマースクールの時必ずアロハシャツを着て現れました。その時は気がつきませんでしたが、今考えると、それはハワイで買われたものだったと思います。というのは、かつて川端康成がハワイ大学に招かれて集中講義をした時、藤田圭雄さんは夫妻で同行されているのです。藤田さんは元中央公論社の編集部長などを務められ、川端康成とは大変親しい間柄でした。アロハシャツはその時のお土産だったのだと思います。僕の父と同じ年ですが、背がすらっと高く、なかなか似合っていました。

 ということで、僕も真似をして、今は夏の泊りの集会がないので、合評研の時とかに、アロハシャツを着て出かけることを秘かに(?)狙っているのですが、今年はリモートだったので、残念!

2021/12/15

53、リモートは怖い~子ども創作コンクール授賞式で~(2021,12,5)

【子ども創作コンクールのこと】

◎協会が児童文芸家協会、公文教育研究所(およびくもん出版)と共同で毎年募集している「おはなしエンジェル・子ども創作コンクール」という公募コンクールがあります。例年『日本児童文学』の1・2月号に入選作品が掲載されるので、ご存知の方も多いと思います。始められたのが2000年ですから、もう21年目になります。ただ、昨年はコロナ禍で実施できなかったので、今回が20回目となります。

 2000年というのは、「子ども読書年」ということで、90年代に子どもの読書離れということが盛んに言われ、この年を契機に、学校図書館の整備などの施策が取り組まれるようになりました。 この時に、作家団体にふさわしい企画をということで、公文教育研究会の全面的なバックアップを受けて、児文協・児文芸の両団体で、子どもたちに創作を通じて物語のおもしろさを体験してもらえる、創作作品のコンクールを始めることにしたわけです。感想文コンクールとか作文コンクールはいろいろありますが、やはり「創作」となるとハードルが高くなる面があり、応募数もとても多いという数ではありませんが、毎年いい作品が寄せられて、20回を迎えることができました。

 僕は立ち上げから何年かは選考にも立ち会って、応募原稿を読んでいましたが、その後はしばらく“お休み”をいただいてきました。ただ、両協会の理事長が交代で授賞式で講評を述べることになっており、今回僕の番だったので、久しぶりに応募作品(といっても、入選作品だけですが)を読ませてもらいました。幼児および小学校低学年、中・高学年、中学校と三段階に分かれていますが、どの入選作品も、なんというか、物語の〈ツボ〉を心得ている感じで、ちょっと感心してしまいました。十数年前の応募作をちゃんと覚えているわけではありませんが、今回久しぶりに読んで、入賞作品が全体として粒ぞろいで、選考委員がその中から「最優秀」「優秀」作品などを選り分けるのが大変だったろうなという感想でした。

【そして、授賞式でのハプニング】

◎ということで、この前の土曜日(11月27日)午後、リモートでの授賞式を行いました。前回のブログを書いた、その後のことです。上記のように、このコンクール自体2年ぶりで、リモートの授賞式はもちろん初めてです。くもん出版の担当者がすべてお膳立てをしてくださって、僕らはそれに乗っかればいいという形でした。当日、開会の一時間前の午後一時にリハーサルがあり、これは問題なく終わりました。そして二時の開会に向けて僕はお茶を飲んだりして、1時45分ころだったでしょうか、改めて画面に入ろうとしたわけです。

 ところが、リモートのパソコンの画面が真っ暗で、何も映りません。最初は僕の方ではなくて、ホストのくもん側のトラブルかと思いました。今までもう何十回もリモートの会議などをやって、こんなパターンはありませんでしたから(電波状態が不安定でつながりにくくなる、ということは何度かありましたが)。しかし一向に回復しません。一度電源を切って入り直そうと思ったのですが、シャットダウンの表示も含めて、画面が真っ暗で、それもできません。電源を抜いてみたのですが、僕のリモート用のパソコンはコンパクトなサイズで、結構バッテリーが効くので、電源を切ることもできないのです。

◎さすがに、あわてました。僕の出番は、始めの方にあり、選考委員の紹介が終わったら、僕の15分の講評になります。「選考委員の一人」ということなら、その人の顔を見られなかった、で済むわけですが、僕が選考委員を代表する形で講評をする役目だったので、誰ももちろん準備はしていません。つまり、授賞式の一番肝心なところがなくなってしまうわけです。

 僕の仕事部屋は、庭の離れ(というほどのものでもありませんが)になっていて、WiFiの無線のルーターなどはリビングにあります。それを確認しようとリビングに行ってみると、娘がパソコンに向かっていて、インターネットを使っています! つまり、僕が仕事部屋に戻った後、たまたま早く帰ってきた娘が自分のパソコンを起動させ、インターネットの回線が乗っ取られていたわけです。 「なんてこった!」と思いましたが、とにかく原因はわかりました。急いで娘の回線は切らせ、仕事部屋に戻りましたが、パソコンの真っ暗は相変わらずです。ただし、今度は声だけは聞こえて、選考委員の紹介も終わり、僕が呼び出されています。しかし、出ることができません。

 娘がそんな僕の様子を見て、自分のスマホでズームの画面を呼び出そうとしてくれました。そのためには、授賞式のズームのIDが必要ということで、もう一つのパソコンで送ってもらっていたメールを呼び出してIDを確認し、などという作業を、あたふたと始めました。その時、加藤純子さんから電話があり(このコンクールは子どもと読書の委員会の担当で、その責任者が加藤さん)、「藤田さん、画面に出てこないけど、どうしたんですか?」というわけです。現状を説明し、なんとかスマホから入って、時間内に戻るように努力します、とは言ったものの、正直戻れるかどうか、確信はありませんでした。

 そしたら、娘のスマホに授賞式の画像が映り、入賞した子どもたちの一言コメントが始まっていました。本来、僕はその前に話すはずだったわけですが、順番は逆になりましたが、なんとか準備していた「講評」を、スマホ越しに話すことができました。

◎ということで、今回の教訓。これは皆さんの身にも起こり得ることです(笑)。もしリモートの途中で、パタッと画面が切れてしまったら、家族の誰かに回線を乗っ取られた可能性があり、それを疑え、ということ(独自の回線を持っていれば別ですが)。そして、今回感じたのは、つくづくリモートは何があるかわからない、ということ。〈犯人〉も娘でしたが、僕だとスマホにIDを打ち込んでという技はできないので、助けてくれたのも娘ということになります。

 ちなみに、1月に「新入会員の集い」がリモートであり、ここで協会の歴史や活動について45分ほどしゃべることになっていますが、今回のような思いはしたくないので、今度は事務局に行って、そこから話そうと思っている次第です。

2021/12/05