藤田のぼるの理事長ブログ

2021年5月

34、総会が間近です(21,5,25)

【今年の総会は】

◎総会まで、あと四日となりました。昨年に引き続きリモート総会ですが、昨年の場合は「本当にできるかな……」という感じだったのですが、一年間リモートは大分経験を積んだので、その点は安心して迎えることができます。ただ、パソコンの接続がその時になってみないと、という面もゼロではないので、なにごともないよう祈るばかりです。

◎さて、協会の総会は二年毎に、表と裏というか、パターンが違います。というのは、役員の任期が二年なので、その役員改選のある総会とない総会があります。ある方が「表」、ない方が「裏」ということになりますが、表の年は役員改選だけでなく、二年間の活動方針の審議というのもあるので、議事がその分詰まった感じになります。その点裏の年はプログラムがゆるやかですから、今までは「フリータイム」というのを設けて、出席者にマイクを回して一言ずつ、というようにしていました。今回もそれにならってフリータイムを設定しましたが、ただ、リアルの総会は全体の時間が4時間あるのに対して、リモート総会は2時間ですから、30分弱になります。それでも「フリー」なので、さまざまなアピールや協会への注文など、特に地方の方でこうしたリモートだからこそ参加できるという方は、この機会に遠慮なく手を挙げてください。(文字通りに手を挙げるのではなくて、リモート画面の中に「手を挙げる」という意思表示のアイコンがあります。これについては、当日説明があります。)

【総会といえば】

◎総会は、事務局にとってはやはり一年で一番大きいイベントで、事務局長時代は、やはりその準備というのは結構プレッシャーがありました。かつては、土曜日の総会の後に、文学賞贈呈式・パーティーで、次の日曜日が付設研究会でした。ですから、前の晩パーティーが終わって二次会があっても、あまり飲み過ぎるわけにはいかず、ほどほど?にするわけですが、その分、付設研究会が終わった後は解放感(?)で、何人かで飲みに行って、一度前後不覚になって、気がついたらまったく覚えがない電車に乗っていて、そこからなんとか都内に戻って、ホテルに泊まったこともありました。また、途中からは(特に今の埼玉に越してからは遠いので)土曜日は都内にホテルを予約して日曜日の研究会に備えたこともありました。

 なんか、総会と言いつつ酒を飲む話ばかりしていますが、会場の出版クラブ会館が今の九段下に移る前は、神楽坂の出版クラブでの総会の後、そのすぐ近くの「鮒忠」という飲み屋で懇親会を設定していました。ここは一階が普通の座席で、二階が中小の宴会場、そして三階が広い座敷になっているので、好都合でした。理事会の後の飲み会もほとんどここが会場で、ある意味、「児文協御用達」だったわけですが、ここが数ヵ月前から工事の囲いができていて、先日その横を通ったら取り壊されていました。どうやら、お店自体がなくなるようです。コロナのせいかどうか、そもそもそれなりの人数の「宴会」というものが少なくなったということかもしれませんが、なにか一つの時代が終わったような気分にさせられました。

◎総会の議事で記憶に残っているのは、90年代だったかと思いますが、子どもたちの「読書離れ」ということが盛んに言われていた頃です。多分活動方針をめぐる論議だったろうと思いますが、読書離れをどう受けとめるのかということに関して、書き手の我々も読書運動の人たちに任せるのではなくてさまざまな取り組みをすべきという意見と、いや書き手はあくまで子どもたちが喜んで読む作品を書くことに専念すべきという意見が出ました。これはまあ、言わばどっちも大切なわけで白黒決着がつくような話ではないのですが、結構な論議になって、前者は丘修三さん、後者は那須正幹さんがそうした意見の代表格でした。そして、確かそうした議論の後、前者の意見を受けて「子どもと読書の委員会」が発足し、後者の意見を踏まえる形で、古田足日さんが中心になって「プロジェクト〈子どもの本〉」が発足しました。子どもと読書の委員会は今も活動を続けており、またプロジェクトの方は2003年に『子どもと本の明日~魅力ある児童文学を探る~』を出版するという形で、成果をあげました。

 論議の末にそれぞれに委員会を作るというのはいかにも日本的解決で、その時は僕は必ずしも賛成ではなかったのですが、丘さんと那須さんがその後会長(理事長)になったこととも合わせて、熱のこもった論議だったなと、そして本当にどっちも大切だなと、今も思い出します。

2021/05/25

33、あなたは何番目?(21,5,15)

【総会が近づいてきました】

◎総会まで、あと二週間となりました。出欠ハガキ(委任状)はお出しいただいたでしょうか。また、 総会の案内と一緒に、75周年にちなんだ(全国の小中学校に贈る)サイン本のお願いへのお申し出のハガキは、出していただいたでしょうか。今週の水曜日(12日)に事務所に出向いて確認した段階では、 100名にあと少しという数でした。どのくらいの学校から応募が来るかわかりませんが、ぜひご協力のほど、お願いします。

◎さて、総会がまもなくということは、僕が理事長になってまもなく一年、つまりこのブログもあと少しで一年を迎える、ということになります。10日に1回の更新というのはブログとしてはかなりにスローペースだと思うのですが、それくらいの方が長続きするだろうと〔5の日〕(何度か書いたように、5が僕のラッキーナンバーなので)にしました。

 それは正解だったと思いますが、やはり10日だとその間結構いろんなことがあったりします。この間の大きな(?)できごとは、市からコロナのワクチンの接種券が届いたということでしょうか。僕が住んでいるのは埼玉県のまんなか辺にある坂戸市という人口10万人ほどの町です。この時期に接種券が届くのは市の広報などでわかっていましたし、「高齢者」を75歳以上と未満に分けて、75歳以上が先ということもわかっていました。それにしても、その届いた文書がわかりにくい。

 僕はニュースなどで予約の電話がパンクしているという話から、市の受付センターのようなところに予約の電話(もしくはネットで)を入れるのだとばかり思っていましたが、文書のどこを見てもそうしたセンターの番号はありません。その代わりというか、市内の病院・医院のリストと電話番号が一覧表になっていて、どうやら直接医療機関に電話して予約するというシステムのようなのです。そのこと自体はいいとしても、そうした基本的なことを書いてある文書というのがなくて、入っているのは政府が作成したと思われるリーフレットのような(ワクチンについての説明の)もの。まあ、こう言ってはなんですが、僕はこうした文書を受け取る側としては理解度は悪くない方だと思いますが、もうちょっとなんとかならないのかなと思いました。

【今朝の毎日新聞で】

◎本題(?)に入る前に、今日の朝刊で目についた記事を二つ。一つは(文化欄ではなく社会面でしたが)「出版大手3社が丸紅と流通会社~年内設立へ協議~」という記事で、講談社、集英社、小学館の3社が、商社の丸紅と、書籍や雑誌の流通会社の設立に向けて協議を始めたというニュースです。「協議を始めた」とあるからには、この話はかなり進んでいるのでしょう。記事を読むと、どうやら日販やトーハンといった今ある大手取次と競合する形になるようで、だとすれば、日本の出版流通にとってかなり大きな動きになるはずで、それがわたしたちにどう影響してくるかはわかりませんが、注視していかざるを得ません。

◎もう一つは読書欄で紹介されていた本のこと、というか、その紹介文の中味で、毎日新聞は日曜日ではなく、土曜日に読書欄が3ページとられているのですが、その本というのは『氏名の誕生~江戸時代の名前はなぜ消えたのか~』というちくま新書です。紹介しているのは社会学者の橋爪大三郎さんで、庶民が苗字をつけるようになったのは明治になってからなわけですが、明治8年の政府の指示は「女性は結婚後も元の氏を使え」というもので、それが戸主と同姓と決まったのは明治31年の民法からなのだそうです。橋爪さんの紹介文は「夫婦同姓は日本の名前と伝統と関係ない。ぜひ本書を読んで勉強しましょう」とありました。

【さて、”あなたは何番目?”です】

◎今日のタイトルを見て、多くの方はワクチンの順番だと思われたでしょうが、違います。協会の75周年記念資料集のことです。『日本児童文学』3・4月号に書きましたので、大体の内容はご承知と思いますが、最後の第四部の編集がまだ終わっていません。予定ではこの総会時にはできているはずでしたが、コロナで事務所に行く日が限られていることやなにやらで、さらに遅れています。それで、どうせ遅れたなら(というと言葉が悪いですが)と、元々僕ができればこの資料集に載せたいと思いつつあきらめていたものを載せようと思いなおしました。

 それは、協会の50年史『戦後児童文学の50年』に収録した「歴代会員名簿」の続きです。会の歴史的資料として、定款やら活動方針やら声明やらももちろん重要ですが、「誰が会員だったのか」ということがある意味では一番大事なことだろうと思います。そこで、51年目からここまでの入会者のリストを作って、資料集の最後に載せようと思いました。そう”決心”したのは、この連休前後です。

 50年史には1996年6月入会までの会員の名前が記載されており、そこまでが延べ1907名となっています。ちなみに1975年入会の僕は通算1183番目の入会者で、僕の一つ前は友人でもある細谷建治、一つ後は今関信子さんです。また少し後の1199番目は角野栄子さん、1200番目は肥田美代子さん、さらに1206番目に灰谷健次郎さんという名前もあります。昨年はコロナの影響もあって少なかったのですが、大体年間で30名以上は入会者がいるので、25年間で少なくも750名、そうすると現在は延べ2700人くらいには(多分2800人台)なっているはずです。つまり、このリストがあれば自分が創立以来何番目の入会者かということがわかるわけで、96年7月以降の入会の方は、ぜひお楽しみ(?)にしていただければと思います。

2021/05/15

32、創立75周年で、「赤旗」紙に(21,5,5)

【「子どもの日」ですが】

◎コロナ禍の中での連休、いかがお過ごしでしょうか。例年の上野公園での児童書フェスタもなく、な んだか寂しい連休です。実は僕は、昨日の5月4日に野球観戦(もちろんロッテ)に行くことにしていたのですが(連休時期はそうでなくてもチケットが取りにくいですが、今年は人数制限のために余計に大変でした)、相手の日本ハム球団にコロナ感染者が出たため中止になってしまいました。まあ、人のいるところには出かけるな、ということかと思い、あきらめるしかありません。

 今日は「子どもの日」ですが、今朝の毎日新聞の記事によれば、子どもの数は40年連続で減少、総人口に占める14歳以下の子どもの割合は11,9%で、人口4000万人以上の33カ国の中で一番低い割合ということです。少子化という問題は、下手をすると「女性は早く結婚して、子どもを産むべき」という議論になりかねないので注意が必要ですが、しかしやはり今の日本は、子どもを産んで育てたいと思っても、経済的なことも含めてそのハードルが高すぎることは事実です。特に昨年と今年はコロナ禍で少子化に拍車がかかると思われ、子どもの姿が見えない街の光景が”普通”になってしまうことが気がかりでなりません。

【75周年への思いを、「赤旗」紙に寄稿しました】

◎さて、少し日が経ちましたが、協会創立75周年ということにちなんで、4月19日付の「赤旗」の文化欄に寄稿しました。以下にその文章をコピーします。タイトルは「赤旗」編集部でつけてくれましたが、「日本児童文学者協会75年を迎えて」という基本タイトルと別に、僕の文章の最後の部分から取った「「なぜ児童文学か」問い続ける」という見出しが大きく横組みで置かれて、とても意を汲み取ってもらえた、と感じました。また、記事には、創立年の1946年9月に発行された『日本児童文学』創刊号の写真も掲載してもらいました。

 

●日本児童文学者協会75年を迎えて(「赤旗」2021年4月19日付掲載)

 児童文学の作家団体である日本児童文学者協会は、今年創立七五周年を迎えました。結成は一九四六年三月で、その準備が始まったのは前年(昭和20)年の九月ごろですから、まさに敗戦の焼け跡の中から立ち上がった組織といえるでしょう。

 創立時のメンバーには、小川未明、秋田雨雀、坪田譲治、塚原健二郎といった名前が並んでおり、この人たちの多くは、大正から昭和前期にかけて大きなムーブメントとなった、雑誌『赤い鳥』などの場で作家としての成長を果たした人たちです。また、会設立の中心的な働き手だった関英雄、菅忠道、小林純一といった人たちは、少年時代にこうした雑誌に親しんだ世代でした。つまり児童文学者協会は、戦前の『赤い鳥』に代表される童話・童謡運動の流れを汲んでいたわけですが、加えてその後のプロレタリア児童文学運動に関わった人たちを糾合する側面も持っていました。

 こうした会の性格は、創立時に掲げられた五項目の綱領の第一項「民主主義的な児童文学の創造と普及」に集約されています。もちろん、ここには新しい時代の中で子どもたちの真の成長を願う児童文学者たちの願いが込められているわけですが、もう一つの問題としては、彼らの多くが戦時中に、子どもたちに向けて戦意高揚の童話や童謡を書いていたという事実がありました。

 それをどう受けとめ、新たな児童文学を生み出していくのか、綱領に込められたこの課題は、ほぼそのまま戦後に書き手として出発した世代に引き継がれていくことになります。1950年代半ばから、古田足日、鳥越信、いぬいとみこなど若い世代による「童話伝統批判」という動きが相次ぎ、これらは1960年前後からの「現代児童文学」として結実していきますが、その間児童文学者協会の中でも新旧世代の対立として、いわば真の意味での戦後児童文学の、生みの苦しみの時期を会として経験することになります。

 会としての活動が軌道に乗ったのは、60年代後半から70年代にかけてで、例えば七一年に開講した「児童文学学校」は、作家を目指す人たちの講座の言わば老舗として、今も毎年続けられています。しかし、なんといっても会の活動の中で特筆されるのは、機関誌『日本児童文学』の発行を続けてきたことです。これも一九四六年の創刊で、僕自身学生時代に秋田の書店でこの雑誌に出会ったことで、児童文学の創作、評論を目指すことになりました。このほか、さまざまな研究会やセミナーの開催、アンソロジーの編纂、著作権に関する取り組み、国際交流活動、そして社会的メッセージの発信(最近では、日本学術会議の問題での声明発表)など、会の活動は多岐にわたります。これは児童文学という分野のある意味マイナーさ故ともいえるかもしれませんが、およそ文学団体の活動として考え得るほとんどすべての分野に手を出してきた、といえるように思います。

 そうした様々な活動の中で、では児童文学者協会が何をしてきたのか、と問われるならば、僕は「なぜ児童文学か」という命題を問い続けてきた、と答えたいように思います。児童文学は、大人の書き手が子どもに向けて、子どもの言葉で語るという、自己表現としてはある意味不思議なジャンルで、だからこそ「なぜ児童文学なのか」と問い続けることが書き手に求められると思うのです。

 創立時の敗戦後の風景の中で、そしてさまざまな意味で生き悩む子どもたちを目にする現在の中で、この問いを手放すことは許されません。 次の100周年に向けて、子どもたちとの豊かな、そして楽しい連帯の道を模索していきたいと願っています。

2021/05/05