藤田のぼるの理事長ブログ

2023年04月

102、総会声明のことなど(2023,4,25)

【総会まで一月】

・5月27日の総会(前日26日は学習交流会と文学賞贈呈式)まで一か月となりました。今日は事務局で総会案内状の発送作業をしているはずで、明日発送、郵便物が遅れがちですが、連休前にはなんとか届くかと思います。

 今年は役員改選のない年で、お送りする議案もやや少なめになるのですが、その中に、総会声明の案文があります。「安保3文書」に反対する声明です。 声明文(案)の裏に説明をつけて、そこにも書いたのですが、協会で出す声明のパターンには概ね3種類あって、一つは「総会声明」。当然ですが、これは総会の時にしか出せません。それで、総会時ではなく緊急を要する場合は、「理事会声明」という形をとります。ただ、理事会がこれは「日本児童文学者協会」という名義で出すべきだし、その方がいいと判断した場合は、「協会声明」ということになります。この中で、やはり総会の名で出す総会声明が、協会にとって一番重みがあるかと思います。

・今回の総会声明は、上記のように岸田内閣の「安保3文書」に反対する声明で、「子どもたちが再び戦場に立つことがないように!~日本を「戦争をする国」に変質させる「安保3文書」に反対します~」というタイトルです。この中身を書いていると長くなりますし、まもなく案文が届くわけですから、それをお読みいただければと思うのですが、強調したいのはその最後の部分です。以下、最後の段落部分のみ、引用します。

 

 今回とりわけ危惧されるのは、日本の進路を大きく左右するこのような決定が、国会に諮ることすらなく、閣議決定という形で押しつけられようとしていることです。わたしたちは、安保3文書の撤回と共に、きちんとした情報が提供される中で、日本の安全保障のあり方、国際貢献のあり方について、国民的論議が保障されることを求めます。そして、わたしたち一人ひとりがそうした国民的論議に主権者として参加していく決意を、ここに表明するものです。

 

 これまで協会の声明はいろいろありましたが、多分最後は「〇〇ゆえに、●●に反対します」というパターンの結びがほとんどだったと思います。しかし、今回は、私たち自身が、(もちろんいろいろな意見があり得るだろうし、分からないこともたくさんあるわけですが)こうした大事な問題を政治家任せにせずに、国民、市民の一人として、議論に参加していくということが、とてもとても大事だと思うのです。ある意味、中身の問題以上に、こうした大切な問題が一方的に決められていくということに危機感を感じてもいて、こうした結びにしました。

 そして、だとすれば、協会がこうした声明を出すこと自体やその中身について、「理事会がそう言うのなら、まあいいんじゃない」ということでなく、疑問に思う点や付け加えたい点など、会員の皆さんから積極的に出していただくことがその第一歩かと思います。よろしくお願いします。

※岩波の『世界』の5月号で、この問題を特集しているようです。ぼくもこれから見てみます。

【那須さんは左利き?】

・話は全然変わりますが、『ちゃぐりん』という雑誌をご存じでしょうか。JA系の家の光協会が出している子ども向け月刊誌で、学研の『科学』と『学習』もなくなった今、ほとんど唯一残っている子ども向けの総合誌(読み物もマンガも情報記事もいろいろ)ではないでしょうか。実は那須正幹さんの多分最後の創作作品が載ったのも(2021年7月号)、この雑誌でした。

 この雑誌に、「いのちの歴史」という連載があって、いろいろな分野で業績を残した人の一生をマンガで紹介する、言わばマンガ偉人伝といった趣です。今年の7月号のこの欄で、那須さんを取り上げることになったのです。僕はこの雑誌では毎号新刊紹介を書いたり、掲載記事を対象にした感想文コンクールの選者を務めたりしています。そういうご縁で、那須さんの「伝記」の監修をすることになったのですが、あがってきたマンガの原稿を見せていただいて、「あれっ?」と思ったことがありました。那須さんが手紙や原稿を書いている場面が、全部左利きの形になっているのです。僕の知る限り、那須さんは右利きでした。編集部から漫画家の方に確認してもらうと、こちらで参考資料に指定した、中国新聞の連載インタビューで、那須さんが東京から郷里に戻りお父さんの書道塾を手伝うことになったというところで、「僕は左利きで(習字は得意じゃなかった)」という言葉があったのです。このインタビュー記事、何回も見ていたはずなのに、気が付いていませんでした。

 さて、問題は、左利きだったとしても、ボール投げなどは左だったでしょうが、果たして字を書くのも左だったかどうか。そして、僕らが知る那須さんは確かに右手で字を書いていましたから、いつからそのようになったかということです。それによって、漫画の絵柄が変わってくるわけですから。

 ということで、奥さんや幼なじみの方に問い合わせたり、この何日か、那須さんの「利き手問題」でいろいろやりとりしましたが、結局確かなことは分かりませんでした。子ども時代、箸を持つのはやはり左手だったようですが、果たして字はどちらで書いていたのか。でも、子ども時代の那須さんが(字はともかくとして)左利きだったということが分かって、なんだかひどく新しい発見をしたような気になりました。

 ところで、今年の(総会前日の)学習交流会は、那須さんの追悼本『遊びは勉強 友だちは先生』の第一章「那須正幹のことば」(那須さんのエッセイなどから、その生涯を再構成したもの)を、12人の方に朗読してもらって、みんなで聞こう、という趣向です。(第二部は、那須さんをめぐっての鼎談です。)朗読者も募集中です。ぜひ手を挙げてください。

2023/04/25

101、協会事務局に新メンバーです(2023,4,16)

【まずは、言い訳から】

・前回に続いて、新年度早々「5の日」を過ぎてしまいました。昨日(15日)、元々スケジュールが詰まっていたのに加え、急いで対応しなければならないことがあり、今日になりましたが、今日も私用でお昼前に出かけなければならず、今回は短めに、お伝えしたいことを書きます。

【事務局に、三十年以上ぶりでニューフェイスです】

・というのは、この4月から、協会事務局に新しいメンバーが加わったのです。事務局は僕が事務局に勤めていた時期は3人体制だったわけですが、僕が辞めた時点で財政上の問題で新しい事務局員を入れることができず、二人プラス非常勤(会員の間中さんに講座関係の実務をお願いし)という形になり、今も次良丸さんと宮田さん、そしてアルバイターという構成になっています。

 実は、その次良丸さんが来年3月に定年を迎えます。内規でもう5年はいてもらえるのですが、次良丸さんは、定年で事務局勤務としては区切りにしたいとの意向でした。

・なにしろ、僕が事務局長だった時期とは違い、次良丸さんは事務局長の職務に加え、雑誌の編集という大事な仕事も担当しています。この後任となると、相応のキャリアの人でなければならず、どうしようかと頭を悩ませました。かつては、事務局員を募集する際は公募をして若い人を入れていたわけですが、今回はそれでは間に合わないわけで、誰か周辺で適任者はいないかという話になったたわけです。

・結論から言うと、実にぴったしの適任者を迎えることができました。会員で理事経験者でもある原正和さんです。原さんは、昨年の日本児童文学者協会新人賞の受賞者でもあります。

 おまけに、というか、原さんは今まで出版社ではありませんが、公益財団に勤めていて、そこで主に編集の仕事をされていました。協会事務局の給与は安いですから、原さんに声をかけるのはためらいもあったのですが、原さんの方は50歳になり、創作に重点を移したいものの、今までの勤めと両立させていくには無理があり、悩んでいた、とのことで、まあ、お互いに渡りに舟だったわけです

・通常なら、前任者が退職してから入ってもらう訳ですが、上記のように原さんには来年の4月から次良丸さんの仕事をそのまま引き継いでもらわなければならず、1年かけて仕事を覚えていただくため、今年度からの入局となりました。事務局は、三十年以上前に、宮田さん、次良丸さんが入り、それ以降は正規の事務局員は入っていませんでしたから、本当に久しぶりになります。

【40年ぶり?くらいに机の中身を整理しました】

・ということで、僕の机を原さんに引き渡すことになり、神楽坂の事務局に移って以来、のことになりますが、引き出しの中身をかたづけました。始めてみたら、そんなにたいしたものが入っていたわけでもなく、割合早く済みましたが、それでも僕の小学校教員時代(20代)に子どもたちと一緒に撮った写真とか、今40歳を越した娘が中学2年の時にくれた手紙とか、思いがけないものが出てきました。

・ということで、これから事務局に電話された際に、男の声だった場合、次良丸さんと原さんの場合があります。一年で完全に仕事を覚える、ということは大変だと思いますが、原さん、よろしくお願いします。

2023/04/16

100、50年前のこと(2023,4,8)

【ちょうど50年前に】

・新年度、そして記念すべき?100回目のブログということで、「さあ、何を書こうか」と思っているうちに、3日過ぎてしまいました。まあ、これも、この緩いブロらしいでしょうか。

 さて、3月5日の誕生日の時に、「72歳から73歳というのは、特に感慨もない」と書きましたが、ふと「そうでもないぞ」と思い直しました。というのは、僕が大学を卒業して東京に出てきて、小学校の教員になったのは23歳の4月。つまり、それからちょうど50年が経ったわけです。

・本来なら、その一年前、22歳で上京して教員になるはずでした。東京都の教員の採用試験に受かり、勤める学校まで決まっていました。ところが結局単位が足りず、一年留年することになったわけです。でも(これは前に書きましたが)その五年目の時に、秋田大学児童文学研究会というのを立ち上げ、同人誌を2冊出し、そこに書いた「雪咲く村へ」という作品を、『日本児童文学』の同人誌評で那須正幹さんにほめられ、後年それが本になるわけですから、人生、何が幸いするか、わかりません。

【新任の教師として】

・それはともかく、さすがにその年はまじめに授業に出て、都内の私立の小学校に就職することになりました。一学年一学級という、小さな小学校でした。僕は、新任で一年生担任ということになりました。

・その一日目、入学式の時のことは鮮烈に覚えています。アクシデントというか、ハプニングがあったのです。まずは入学式を待つ時間、ベテランの先生なら子どもたちの緊張をほぐすような話題で時間を過ごすでしょうが、僕はその自信はなかったので、絵本を読むことにしました。寺村輝夫さんの『ぞうのたまごのたまごやき』で、読み始めたら結構長いので(練習していた時はそう思わなかったのですが)、「もっと短いのにすればよかった」と思ったことを覚えています。

・さて、入学式です。実は、この一年生のクラス、学校の新しい試みとして、障害を持った子どもを入学させて、いわゆる健常児と一緒に育てるという、初めての試みのクラスでした。自閉症の女の子が一人、そして情緒障害という男の子が一人、そうした子を含んだ(確か)36人でした。

 ハプニングは、校長先生の話の時に起こりました。その情緒障害の男の子が突然席を立って壇上に上がり、校長先生の演壇の中に潜り込んだのです。こんな時、どうすればいいのか、教師1日目の僕には見当がつきません。連れ戻さなければいけないのかなと思うものの、彼がすんなり戻るとは思えず、大騒ぎになるのは目に見えています。それに、校長は平然と話を続けているので、結局僕はそのまま見守るしかありませんでした。(後で聞くと、演壇の中でA君は校長先生を蹴りつづけていたそうです。)

・その時校長は、こんなことを言いました。「人は一生懸命な時が一番美しいのです。A君は、一年生になってうれしくてたまらず、一生懸命その気持ちを表したくて、ここに上らずにはいられなかったのです」と。僕は(母方の)祖父の代から学校の先生ですし、六人兄弟の僕も含め四人が先生という一家だったし、学生時代にセツルメントの活動で子どもたちとは結構接していましたから、ある意味自信満々で先生になったのですが、この一日目でその自信などあっという間になくなりました。同時に、本物の教育者を見たな、この学校に就職できて本当によかったなと思いました。

 ただ、僕はそのクラスを三年生まで担任しましたが(一学年一学級ですから、クラス替えというのはないわけで)、まあなかなか大変な三年間でした。その時の子どもたちをモデルに、僕は『雪咲く村へ』の後に、「山本先生」シリーズ(『山本先生ゆうびんです』『山本先生新聞です』『山本先生ほんばんです』)を出しましたが、A君や自閉症のK子ちゃんのことは書けませんでした。

【講座を受講して】

・これも前に書きましたが、僕が東京に出てきたのは、基本的には就職のためでしたが、児童文学の勉強をしたいということもありました。その二年前から協会の児童文学学校が始まっていたのです。ただ、当時は今と違って秋からの開講だったので、その半年が待ちきれず、目白の子どもの文化研究所で4月から半年の児童文学講座があると聞いて、それに申し込みました。ですから、そこからもちょうど50年ということになります。その講座も確か月2回で、児童文学学校と同じようなカリキュラム(但し、実作指導はなし)でしたから、その講座で初めて児童文学作家や評論家の話を直に聞くことができました。その時の受講者のメンバーの何人かとは今でもお付き合いがあります。

 思えばあれから50年、飽きっぽい僕としては、良く続けてこられたな、という感慨があります。一方で、50年もかかってどれほどのことができたのかという思いもありますが、児童文学を半世紀読み続けてきた者として、できることはちゃんとやらなければと思いを新たにしています。

2023/04/08