藤田のぼるの理事長ブログ

2023年3月

99、加藤多一さんのこと(2023,3,25)

【加藤多一さんが亡くなられました】

・全国紙に訃報が載ったかどうか(北海道新聞にはていねいな死亡記事が載りました)、作家の加藤多一さんが、この18日に亡くなりました。享年88歳でした。

 協会の会員なら、加藤さんのことを、「総会でなんか文句を言う人(笑)」として認識されている方も、少なからずかもしれません。児文協の総会は、かつては「文句を言う人」が結構いて、ですから時間もかかり、活動方針案なども追加や修正が入ることがしばしばでした。まあ論議が活発だったとも言えますが、僕から見て、不毛な論議に思えることも少なからずではありました。

 2000年代あたりからでしょうか、良くも悪くも提案された議案は“すんなり”承認ということがほとんどになったのですが、そんな中で“異彩”を放っていたのが加藤さんで、北海道から毎回のように出席され、来れば必ずと言っていいほど、いろいろと意見を出されました。その全部が提案に反対ということではないので、まあ「はい、そうですね」と聞いていればいいのですが、僕がカラミ性なので、よせばいいのに「今の加藤さんの発言は、前提が違っていて……」などと突っ込み、それが協会の総会の“名物”になっていたかもしれません。

【加藤さんの思い出】

・僕が加藤さんと親しくなったのは、加藤さんの『草原~ぼくと子っこ牛の大地~』について評論を書いたことがきっかけだったでしょうか。この作品は1986年の協会賞を受賞した加藤さんの代表作ですが、僕には加藤さんのそれまでの作品との文体の違いがとても印象的でした。ですから、評論でもそのことに触れたわけですが、それを読んだ加藤さんが、今までの評論は、ほとんど題材とかテーマについてしか語ってなかったけれど、文章、文体について論じてもらったのは初めてだ、というふうに喜んでくれて、そのあたりからは総会でも文学的な(?)声をかけられることが多くなったように思います。

・それと重なる時期になると思いますが、協会創立50周年でしたから、1996年か、あるいは97年だったかもしれません。札幌で北海道支部主催の記念集会があり、当時加藤さんが支部長でしたが、僕はその集会に呼んでもらいました。実は、この時が僕にとって初めての北海道行でした。関東以西の人には、秋田の人間がそんな年(40代でした)になるまで北海道に行ったことがないというと、びっくりされるのですが、秋田から北海道は結構遠いのです。乗り物に乗る時間なら、東京の方がずっと近いくらいです。

・それはともかく、それからは北海道に行く機会が多くなりました。たいていは協会の用事や講演などでしたが、一度娘たちがまだ小さい頃ですが、うちの家族4人と、親しい一家(やはりそちらも小さい子を含めて4人)とで北海道旅行をし、当時旭川の近くの(といっても北海道のことですから、かなり距離はありますが)剣淵に住んでいた加藤家に一泊させてもらったことがありました。庭でにぎやかにバーベキューをしてもらい、ジンギスカンをつつきビールを飲みながら加藤さんと話し込んだことが、その時の光景と共に思い出されます。

 そういえば、その十年位前、僕の結婚式に加藤さんに出席してもらい、スピーチをしてもらったこともあり、カミさんも加藤さんのファンでした。

・それから、これもそれと前後する時期ですが、僕が『日本児童文学』の編集長を務めた時、創作の連載を復活させたのですが、真っ先に頼んだのが那須さんと加藤さんでした。那須さんは一つの石をめぐって時代が移っていくタイムファンタジー風な連作で、枠組みがはっきりしていたのですが、加藤さんの方は「オレ」と名乗る「神」が次々にいろんなものに乗り移っていく設定で、どんなふうに展開していくのかまったく読めず、感想を書き送るのに苦労(?)しました。そのお二人は『亜空間』という同人誌のお仲間でもありました。僕にとってはお二人とも文字通りの兄貴分で、加藤さんの訃報で「享年88歳」と聞いて、「あれ、そんなにと年が離れてたっけ?!」と思ってしまいました。加藤さん、度々生意気な口をきいて、すみませんでした。

 実は、今日、25日、小樽で加藤さんの葬儀が行われたはずです。列席は叶いませんでしたが、理事長名で送った弔電で、今日のブログを閉じさせていただきます。

 

加藤さんの訃報に接し、ご家族、ご親族、ご友人の皆さんに、深く弔意を表します。

加藤多一さんは、北海道という拠点から、生きることのすばらしさと、それを阻むものへの闘いの大切さというメッセージを、日本中の子どもたちに発信し続けました。

ロマンと抵抗精神に満ちた加藤さんのご生涯と文学活動に、心からの拍手を送ります。

加藤さん、ありがとう。さようなら。でも、加藤さんの作品は生き続けます。

                   日本児童文学者協会理事長 藤田のぼる

 

2023/03/25

98、3,11の集会のこと(2023,3,16)

【昨日は】

・このブログも、100回に迫ってきました。たいしたことは書いていませんが、僕としてはよく続いてきたかなという感想です。本来の更新日の昨日は、事務局に出かけ、11時から新しいホームページについてのミーティング、午後からは、文学賞の選考委員に本の手配などの連絡で一日終わってしまい、ブログまで行きつけませんでした。歴代の会長・理事長で、いまだにこんなことをしているのは僕ぐらいでしょう。まあ「事務局員あがり」だからということなのですが、僕が事務局長を退任した時点で本来なら新しい人を入れたかったわけですが、財政上それが無理で、次良丸さんが事務局長の仕事をしつつ、『日本児童文学』の編集実務まで担当し(以前は、専任のスタッフがいたわけですが)、宮田さんは数年前から契約社員的な条件で経理をやってもらっている、という体制の中では、僕が引き続きやらざるを得ない、という事情があります。

 正直言って、そうした事務仕事が、僕は嫌いではありません。協会の事務は、経理のような文字通りの事務もありますが、いろいろなところとの連絡、調整というのが大きなウェイトを占めていて、前に書いたことがあったかどうか、僕が事務局員になって密かに? 楽しんで? いたのは、会議日程の調整でした。例えば6人の集まりを設定する場合、6人の都合がそろえばいいのですが、なかなかそうはいきません。仮に5人の都合がそろった日(つまり、一人が欠席になってしまうケース)が2通りあったとして、どちらの人を欠席にするかというのは、なかなか微妙な選択になります。だから、欠席を余儀なくされた人が「自分が軽視されている」というふうに思わないように、いろいろ工夫しました。逆に言えば、これはまあ会社などでも同様と思いますが、そういうふうに思ってしまう人が少なからず、と僕には感じられ、結構気を遣いました。

 今回の本の手配なども、一つの本を回し読みにする場合は、誰を先にするのか、誰から誰に回してもらうかなども、機械的には決めず、いくつかの要素を考えながら、順番や組み合わせを設定しています。まあ、その辺はやや“趣味”の領域になるかもしれませんが、そういうことをある程度“楽しみ”という風に思わないと、仕事はつまらなくなるばかりではないでしょうか。

【12年目の3月11日に】

・さて、今年は東日本大震災から12年目の3月11日でした。この日、日本ペンクラブ・子どもの本委員会の主催で「平和の危機の中で考える 13年目の「3・11」」という集会があり、その第一部では、那須さんの『ねんどの神さま』を俳優の中村敦夫さんが朗読されました。この作品は、東日本大震災とは直接関りませんが、ペンクラブの会員でもあった那須さんの追悼という意味と、戦後という時間で忘れ去られていったことへの告発がモチーフになっているこの作品を読み返すことで、まだ12年しか経ってないのに、原発の再起動どころか新設まで話が出ている現状への異議申し立てという意味が込められてのプログラムだったと思います。

 僕は、この『ねんどの神さま』については、那須さんの作品の中では必ずしも手放しでは評価していません。この絵本は読者の「共感」というより「異化」を誘うことでメッセージを届けようという仕掛けの物語だと思いますが、果たしてそれが子ども読者に届くかどうか、微妙だと思うからです。

 しかし、中村さんの朗読は、むしろ淡々としていて決してドラマチックに流されず、それだけに切々と迫ってきて、この作品の迫力を再認識させられました。

 第二部では、「「3・11」は“今”に何を問うのか」というタイトルでのシンポジウムで、朽木祥さん、高田ゆみ子さん、中澤晶子さん、濱野京子さんがパネリスト、西山利佳さんが司会でした。高田ゆみ子さんは、核戦争を描いた『最後の子どもたち』などの訳者で、このテーマではこれ以上の組み合わせはないという顔ぶれだったと思います。その内容については、ペンクラブのHPなどでも紹介されると思いますが、作家のモチーフと“責任感”のような思いを重ねていくことはとても厳しい作業だと思うのですが、それに果敢に挑んでいるパネリストに、「作家魂」といったものを感じる時間でした。

 シンポジウムの中身からはちょっとずれるのですが、中澤さんがお話の中で高村薫の『神の火』を挙げられたのを聞いて、『ふうせんの日』という作品を思い出しました。『神の火』は原発をめぐる諜報戦、原発への襲撃計画が描かれ、多分中澤さんは児童文学ではあり得ない設定という感じでおっしゃったと思うのですが、『ふうせんの日』では、夏休みに原発で働くおじさんを訪ねた子どもが、原発への襲撃に巻き込まれるという展開です。

 作者の八起正道さんは『ぼくのじしんえにっき』という作品でSF童話大賞を受賞され、デビューしたのですが、これも東日本大震災どころか、阪神淡路の震災より前に書かれた作品です。そして、そのリアリティーは、二つの震災を経験した後に読むと、いっそう身に沁みます。その後、上記のように原発を舞台にした『ふうせんの日』(1992年)以降は本を出されてはいませんが、改めて注目したい作家だと思いました。

2023/03/16

97、子ども時代のこと(2023,3,5)

【今日は、誕生日です】

・本日3月5日は、僕の誕生日です。(それもあって、5の日にブログを更新しているわけです。なにしろ5時55分に生まれた人ですし。)72歳から73歳になるというのでは、特に感慨もありませんが、まあ、今のところ健康で70代を過ごせているのを良しとしなければならないでしょう。

 昨年は、ブログに書いたように、新美南吉童話賞の表彰式で、人生で2回目の「自宅にいない誕生日」を経験したわけですが、今年の表彰式は2月に終わり、確定申告も4日に税務署に送り、あと車の免許の書き換えがありますが、まずは“平穏”な誕生日を迎えています。

 そんなわけで、誕生日記念?に、自分の子ども時代のことをいくつか書いてみたいと思います。

・人間の記憶が何歳頃からかというのは、よく言われますが、断片的なことはあるにしても、学校に入る前の確かな記憶というのは、そんなにありません。ひとつには、田舎のことで幼稚園というものがなかった、ということもあるかもしれません。ただ、なにしろ団塊の世代ですから、近所には子どもがあふれていて、その中に僕を含めて、同学年の男の子が三人いました。何の時だったか、このブログに一度登場している(名前は出しませんでしたが)公明くん(コメちゃんと呼んでいました)、誠孝くん(センボと呼んでいました)、そして僕(そのままノボルちゃんでした)が一番の遊び友だちで、みんな上の兄弟がいて、「お弁当」にあこがれていました。「となりのトトロ」で、メイがサツキにお弁当を作ってもらう場面がありますが、お弁当は大きくなった証みたいな感じがあったのだと思います。

 そこで、これは4、5歳くらいになった頃でしょうが、親に弁当を作ってもらって、三人の家を持ち回りで、お昼の弁当を一緒に食べるのです。これを「弁当開き(べんとうびらき)」と言っていました。いつも遊んでいても、意外に家の中に入ることは少なかったので、それぞれの家や家族の雰囲気を感じることも新鮮だったような気がします。

 コメちゃんは僕と違ってスポーツ系で、クラスがずっと別だったこともあり、その後あまり付き合わなくなりましたが、センボからは竹ひご飛行機(これも、「となりのトトロ」でカンタが作っています)の作り方や将棋の指し方(僕はどちらもうまくありませんでしたが)なども教わりましたし、中学に入って、同じブラスバンドに入り、彼はトロンボーンを吹いていました。その頃のことを題材にした『錨を上げて~ぼくらのブラスバンド物語~』という作品に出てくるトロンボーン担当は、彼がモデルです。

・僕らが子どもの頃は、一日に10円をもらって駄菓子屋に行くのが日課でした。僕の家のあたりは、小さな田舎町ですが、当時は歩いて5分圏内位にほとんどの種類の店がそろっていて、老夫婦が営んでいる駄菓子屋もありました。まず5円でキャラメルとかお菓子を買い、あとの5円でクジを引く、というのが定番だったような気がします。

 その駄菓子屋(「ひさご」という、何か小料理屋のような店名でしたが)で、僕が中学年くらいの時だったでしょうか、貸本屋も一緒に始めたのです。いわゆる劇画風の漫画がメインだったように思います。貸本代がいくらだったか、いずれにせよ、漫画を借りるとお菓子を買えなくなります。また、借りられるのは多分1、2冊だったと思います。

 そこで僕は、今思うとよくそんなことを思いついたし、申し出たと思うのですが(なにしろ、気の弱い子どもでしたから)、10円出すから、借りるのではなく、そこで自由に漫画を読ませてもらう、という“契約”にしてもらったのです。(そんなシステムがあったわけではなく、僕だけの特別バージョンでした。)自分で言うのもなんですが、僕はいわゆる優等生で、そこのおばあちゃんに受けが良かったから、ということもあったかもしれません。そんなわけで、週に一、二度は、お菓子はあきらめて、もっぱら“読書”に勤しむ、という時間を過ごしていました。

・もう一つ子ども時代のことで忘れられないのは、「すいかを初めて食べた日」のことです。当時、テレビは徐々に普及し始めていましたが、まだテレビのある家は少数派でした。数軒先に電器屋さんがあり、ある時、近所の子と二人、外から窓越しに、その電器屋さんの家のテレビ(売り物ではなくて、居間に置いてあるテレビで、おばあちゃんが見ていました)を見ていました。夏の午後だったはずです。そしたら、電器屋さんのおばさんが、大きな皿にすいかと包丁を載せて持ってきました。その瞬間、「まずい」と思ったのですが、なんというか、体が固まって動けません。

 なにがまずいかと言うと、僕はすいかが食べられなかったのです。僕はとにかく偏食な子で、特に果物、すいか、みかん、ぶどう、いちごなど軒並みダメでした。「まずい」と思ったのは、そのすいかを電器屋のおばさんが、おばあちゃんにだけではなく、僕らにもくれるのではないかと思ったからです。

 案の定、切ったすいかが、窓越しに、僕ともう一人に渡されました。その時のずしりとした重さは、今でも思い出します(笑)。「食べられません」とは言えません。思いきってかじりました。それが、僕が人生で初めてすいかをくちにした日でした。このことは、子どもの作文調と短編作品調に描き分けて、大学の創作の教材に(「事実を元にした作品」の例として)使っていました。ちなみに、近所にもう一軒電器屋さんがあったのですが、僕の家ではそのすいかの電器屋さんから、テレビを買ったのでした。

 こうやって思い出すと、僕はそんなに外でわいわい遊ぶタイプの子ではありませんでしたが、それでもまわりには子どもがあふれていたという感じがあります。なにしろ一学年250万人の時代で、今80万人を切ったということですから、3分の1以下ですね。ここで少子化について論じるつもりはありませんが、やはり寂しい時代になったな、という感じは否めません。

2023/03/05