藤田のぼるの理事長ブログ

11、『日本児童文学』9・10月号がおもしろい(2020,9,15)

【その前に】

◎前回、自民党総裁選のことを書きましたが、昨日“予定通り”菅さんが選出されましたね。会見では、開口一番「秋田の農家に生まれ……」と、その出自(?)を語っていましたが、『週刊文春』(9月17日号)なども指摘していたように、当時地元の進学校に入学し、家を飛び出して(働いた後とはいえ)大学に入学するというのは、それなりに恵まれた方ともいえ、まして「集団就職で」というのは正確でないというより、ウソに近いですね。

 とはいえ、そういう僕も、このブログの最初に、「児文協に出会ったのは、秋田の書店で『日本児童文学』に出会ったのがきっかけ……」と、いかに恵まれない(?)環境で児童文学を始めたかをアピールしているようなところもあり、まあ一国の総理と児文協の理事長を並べるつもりもありませんが、“自戒”です。

 あと、この間見聞きした中で一番おもしろかったのは、何日か前の毎日新聞の投書で、長く続いた安倍政権を「悪夢のような7年8ヵ月」と、安倍さんお得意のフレーズを使って評していたことで、まさしくその通り! 座布団10枚でした。

【さて、『日本児童文学』です】

◎わが『日本児童文学』ですが、前回の7・8月号の「ジェンダーと児童文学」特集もおもしろかったですが、今度の9・10月号の特集「学校と家庭のはざまで」はおもしろかったというか、いろいろに啓発されました。 機関誌の特集内容というのは結構早く、(場合にもよりますが)半年前くらいに決めるので、おそらくこの特集を企画したのは2月か3月ころ、いずれにしても、コロナと社会、コロナと子どもとの関係については、そんなに考察が進んでいなかった時期だろうと思います。もちろん今回の特集は、コロナ禍という問題だけではなく、子どもの貧困、子どもの居場所といった問題を意識して、あるいはそれらの問題の関連性を意識しながら特集内容が検討されたと思うのですが、感心(という言い方は偉そうかもしれませんが)したのは、執筆者の選択でした。思い切って(多分)総論・各論的なところは4人とも児童文学の人ではない、子どもの問題に関わる専門家たちに登場してもらって、今の子どもたちの“居場所”をめぐる問題を、さまざまな角度から論じてもらっています。本当に勉強になりました。(書かれている中身もそうだし、こんなふうに子どもたちと関わっている人たちがいるのだ、という意味でも。)

【増山 均さんのこと】

◎ところで、やや余談めきますが、今回冒頭に登場している増山 均さんは、子どもの文化、ややわかりやすく言えば生活文化の専門家ということになると思いますが、僕は彼のことは学生時代から知っています。というのは、彼は東京教育大で僕は秋田大で学年は一つ二つ彼のほうが上ですが、共にセツルメントというサークルに入っていたのです。セツルメントというのは、元々は地域の中で、医療、生活改善、教育・保育などに取り組むある種の社会運動ですが、僕らの学生セツルメントは、まあ地域での子ども会活動といった内容でした。加古里子さんが(彼は確か東大の工学部ですが)セツラーだった(セツルメント活動をする人を、そう呼びます)というのはよく知られていますし、その時の経験が彼の創作活動の原点にもなっていると思います。

◎セツルメントは上記のように社会運動的な性格を持っていることもあり、僕もまあその一人ですが、そこをきっかけに当時のいわゆる学生運動に参加していく人間が多いという傾向のサークルでもありました。そして、全国学生セツルメント連合(全セツ連)というのがあって、僕はその大会などで、よく東京に出かけていました。その全セツ連の書記長だったのが、増山さんなのです。その後、彼がまだ日本福祉大の教員だったころだと思いますが、何かの席でお会いして、懐かしくあいさつしたことを思い出します。

◎それから、増山さんといえば、彼は今年度から日本子どもを守る会の会長になったのですが、同会発行の『子どものしあわせ』(6月号あたりだったか)に会長就任のあいさつが載っていて、そこで彼は同会としては初めての戦後生まれの会長だと書いていました。子どもを守る会のことは児文協の会員でももはや知らない人のほうが多いかもしれませんが、同会の結成には児文協が深くかかわっていますし、今も団体として加盟しています。僕も会報の理事長就任挨拶に同じことを書いたので、上記の学生時代のことを思い出しつつ、少しく感慨を覚えたことでした。

【エッセイもおもしろかった】

◎そうそう、ここで一言断っておくと、よく外部の方が僕に「この前の『日本児童文学』はおもしろかったねえ」というような言葉をかけてくださる場面があり、それは当然僕が何らかの形で編集に関わっているだろうというような前提でのあいさつのようでもあるのですが、僕は編集委員でもなく、事務局長時代は編集会議を横で聞いていて、たまに口出したりすることもありましたが、今はそういう関りもまったくありません。まあ、理事会の一員として特集タイトルぐらいは事前に聞いていますが、中身は雑誌が発行されるまでわからないので、その点はほかの会員の方たちや一般の読者と変わりないわけです。

◎それで、今回ここまで書いたようにとても興味深く読んだわけですが、上記の4人の寄稿の後に、岡田淳さんを始めとする7人の、「子どもたちの居場所」をめぐるエッセイが並んでいて、これもなかなか見事な人選だと思いました。中身はまあ読んでいただくとして、3番目の中島信子さんは、この雑誌には何十年ぶりの登場でしょうか。というか、中島さんは、かつて(僕などより前の)児文協の事務局員で、その後作家となり、協会の理事を務め、事業部長や財政部長などを歴任されました。いろいろに行き違いがあって退会されたのが、もう二十年くらい前でしょうか。ですから、古い会員の方であれば、「中島さん」といえば誰でも知っているような存在でした。

 作家としても、その後ほぼ“お休み”状態だったのですが、昨年汐文社から子どもの貧困を題材とした『八月のひかり』を久しぶりに出されて、話題になりました。確か帯には「伝説の作家」とか書かれていてちょっとおかしかったのですが、ともかくその中島さんにも本当に久しぶりに登場していただいて、うれしいことでした。編集委員の皆さんのご努力に、敬意を表します。

2020/09/15

10、自民党総裁選に思う(2020,9,6)

【安倍さんのこと】

 ◎このブログ、一応5のつく日に更新しているのですが、パソコンを修理に出すことになり、自宅から更新できず、今協会事務局に来て作業しているので、一日遅れになりました。台風10号の被害が思いやられます。

 さて、新聞の社説みたいなタイトルになりましたが、安倍首相の突然の辞任表明には驚きましたね。一方で「やっぱり」という感じもあり、病気については「お大事に」というしかありませんが、あれだけ辞めてもおかしくないことだらけだったのに辞めないとなると、そのストレスは人間の限界を超えていたようなところもあったでしょう。だから、「病気で辞める」という辞任の仕方は、安倍さんにとって“名誉”を守れる最後の手段だったような気もします。しかも、総理大臣としての最長記録を作ったとたんに辞めたわけですから(2000本安打を打ったところで引退したプロ野球選手を思い出してしまいましたが)。逆に言えば、あれだけのことをさせておいて、世論の力で辞めさせることができなかった、というのは、残念というしかありません。

◎安倍さんのこれまでのいろいろにもその都度新鮮に(?)驚かされましたが、さらに呆れるのは、総裁選の成り行きです。上記のように、客観的に見れば安倍政権の行き詰まりの末の辞任だったわけですから、従来の自民党の総裁選であれば、嘘でも(?)なんらかの改革とか刷新といった言葉が飛び交っていたと思います。それが、「安倍政権の継承」を打ち出した、ある意味安倍さん以上に安倍政治の担い手だった人が圧倒的大本命というのですから。 つまりは、「国民のために、今何が求められているか」といった命題に、格好だけでも応える気もなく、あるいは余裕もなく、とにかく今の権力体制をどう維持するかということのみでモノゴトが動いているという、民主主義として誠に危機的な状況を、わたしたちは目の当たりにしているのだと思います。

【菅さんのこと】

◎さて、その大本命の菅さんは秋田出身で、僕より一つ年上、つまり同郷にして同世代になります。菅さんが総理になれば、秋田出身者としては初めてのことになります。ここからは飲み屋で一杯やっているおじさんのたわごと程度に聞いていただければよいのですが、僕が協会の事務局長になってそんなに経ってない頃なので、1990年前後あたりでしょうか、ふと気がついたのですが、児童文学の団体のトップに、妙に秋田関係者が多かったのです。

 そう思い始めたのは、多分児文芸の理事長に高橋宏幸さんが就任されたのがきっかけだったでしょうか。 高橋さんは児文協の会員でもありましたが、元々は小峰書店の編集長で、絵も文も書かれ、教科書にも掲載された『チロヌップのきつね』が代表作でしたが、秋田大学の全国にただ一つという鉱山学部(今は改組・改称されましたが)の前身の鉱山専門学校卒業という、異色の経歴の方でもありました。僕は同郷ということで、いろいろ声をかけてもらいましたが、ふと気が付くと当時の児童文学学会の会長の滑川道夫さん(僕からは滑川先生という感じですが)も日本子どもの本研究会会長の増村王子(きみこ)さんも秋田出身で、お二人は秋田大学教育各部(の前身の、師範学校および女子師範)の大先輩でもありました。(このお二人も児文協の会員でもあり、滑川さんは児文協理事長も務められました。)

◎実は、残念ながらというか、お隣の岩手県には宮沢賢治、山形県には浜田広介という大看板がいるのに比べて秋田出身ではこれといった作家が見当たりません。もう一つの隣県の青森県にも協会の第二代会長の秋田雨雀がいますし、児童文学ではありませんが、太宰治、寺山修司といった大所がいます(秋田は、児童文学だけでなく、大人の文学でも、これといった名前があがらないのです)。そんな中で、上記のように、児童文学の関連団体の長に意外に秋田出身者が多いことに気が付き、児文協事務局長に成り立てだった僕は、つまりは秋田出身者はこういう調整役という役どころには向いているのだろうという、およそ根拠のない感想を抱いたことがあったわけです。そういうふうに思うことで、自分を励ましたのかもしれません。

 菅さんはこれまでまさに「調整役」としての手腕は認められてきたわけで、さてその人がトップになった場合、どうなのか。正直、そんな興味もないことはないのですが、しかしここまで書いたように、秋田出身というだけで何か共通点があるという妄想を抱いたりする僕にとっても、同郷・同世代の菅さんに何かしらの親しみを覚えるかといわれれば、それは自分でも驚くほどゼロです。それほど、今回の自民党総裁戦の構図は、醜いというか、権力闘争丸出しという感じしかしません。

 菅さんは、会見でも「秋田の農家に生まれ……」というふうに、自分の出自をむしろやや誇らしげに(つまりエリート政治家の安倍さんなどとは対極にあることを強調したいのでしょうが)語っていましたが、これからは「秋田」という言葉を彼の口から聞くたびに、やや苦々しく思うことになるのでしょうか。

2020/09/06

9、野球(ロッテ)の話(2020,8,25)

【今年のプロ野球は……】

◎関心のない方には誠に恐縮な話題ながら、日本のプロ野球の話です。今年はコロナのせいで開幕が2ヵ月近く遅れ、しばらく無観客でしたが、今は観客を5千人にしぼって試合をしています。球場は一番収容人数が多い東京ドームで4万6千人、少ない千葉のロッテのマリンスタジアムで3万人ほどです。 そこに5千人ですから、かなりディスタンスは取れるというものの、コロナは大丈夫かと懸念されますが、今のところ野球場で感染といった問題は起きていないようです。

◎ということで、例年よりも少ない試合数でペナントレースが進められているわけですが、セリーグは早くもやや巨人の独走状態、パリーグは混戦模様になっています。そしてこの前の21日の金曜日ですが、ロッテがソフトバンクに勝って単独首位に立ったのですが、これが(8月の段階で首位になったことが)なんと「50年ぶり」ということでニュースになりました。うれしいというよりも、恥ずかしいですね、ファ ンとしては。前の7月5日付のブログにちらっと書きましたが、はい、僕はロッテマリーンズのファンですが、50年どころではありません。ファン歴60年というすごさ(?)で、なかなかいないと思います。

【なぜ、ロッテファンに?】

◎上記ニュースの「50年前」というのは、そもそもまだ「ロッテ」ではなく「東京オリオンズ」で、多分金田監督の時代だと思います。僕はその十年前ですから、ファンになったのは小学生の時です。当時、秋田の田舎の子どもは90%が巨人ファン(テレビは巨人戦しかやらないし)、残りが親の影響などで、 阪神ファン、南海ホークスファン等々というくらいで、「大毎オリオンズ」ファンの小学生など、秋田県全部でも10人はいなかったのではないでしょうか。実は自分でもなぜファンになったのかはっきり覚えてないのですが、オリオンズは「10年毎に優勝する」というジンクスがあって、1950年、60年、 70年と優勝しています。その1960年は僕が10歳なわけで、当時『少年サンデー』『少年マガジン』が創刊されて間もない頃でした。そこに優勝の特集記事が載り、惹きつけられたのではないかと思います。それ以外、考えられません。ともかく、そんなわけで、ロッテ一筋60年なわけです。

【児童文学界とロッテ】

◎今の千葉に移る前の、“伝説”の川崎球場のことなど(なにしろ人が入らなくて有名でした)、書きたいエピソードはいろいろあるのですが、ここは自重(?)して、「児童文学界とロッテ」ということで お話したいと思います。児童文学の世界で僕以外にロッテファンとして知っているのは(当然、数は少ないですが)6人ほどいます。

 まずは皿海達哉さん。皿海さんは広島県生まれですから元々は広島ファ ン。それが東京で過ごした学生時代、同人誌仲間の日比茂樹さんの影響でロッテファンになりました。ちょうど50年前の金田監督の時代だと思います。当時のことを皿海さんに語らせたら、3時間くらいの独演会になります。

  そして、児文協元会長の砂田弘さん。砂田さんは山口県出身で元々は福岡の西鉄ライオンズファンでしたが、千葉のロッテ球場から近い所にお宅があった関係で、ロッテファンになりました。その砂田さんを、一度だけ球場でお見かけしたことがあります。お嬢さん(当時小学校高学年か中学生くらいか)と一緒でした。砂田さんという人は、気難しいというかシャイというか、めったに笑顔など見せない人でしたが、その時のお顔は僕が見たことのない柔らかな表情でした。

  ここからはイニシャルになりますが、中部児童文学会のNさん。協会事務局にいらした折に、ふと気がつくとロッテのクリアーファイル(だったと思います)をテーブルの上に置かれたのです。僕がロッテファンと聞きつけて、「私もです」というサインを出してくれたわけです。もうお一人、会員のMさん。やはり球場で帰り際バスを待っていた時にばったりお会いしました。

◎そして、最後の一人は三田村信行さんです。僕は三田村さんとは面識がなく、はじめてちゃんとお会いしたのは、上記砂田弘さんの評論集の出版パーティーの折でした。二次会の時にすかさず隣に座った僕は、三田村さんに「好きな球団はありますか?」と尋ねたのです。三田村さんの作品のなかに野球の話もあるので、そう聞いたわけですが、ある予感としては“こういう作風の人は、まさか巨人ファンではないだろう”という、思い込み的予感もありました。すると三田村さんが「ありますが、恥ずかしくて言えません」とおっしゃるので、「では、僕から言います。ロッテです」というと、「私もです」とお っしゃったのですが、あとから「えっ、ロッテって、恥ずかしくて言えない球団?」と一人で笑えまし た。

 なお、ついでに(?)お知らせすると、協会事務局は、次良丸さんが(名古屋出身なので)中日ファン、宮田さんはお父さんの影響で巨人ファンです。随分昔のことになりますが、次良丸さんが事務局に勤めて間もない頃、東京ドームにロッテ対日本ハムの試合を一緒に見に行きました。日ハムが北海道に行く前で、東京ドームがフランチャイズの時代です。僕が「ロッテファン、結構いるでしょ」と自慢(?)したら、「これで全員じゃないですか?」と切り返されて、これも笑えました。

  さて、これを読んで、「私もです」とおっしゃる方は、恥ずかしくありませんので(笑)、どうぞご一報く ださい。(そういえば、会員のどなたかからそのように聞いたような覚えも。抜かして、ごめんなさい。)

2020/08/25

8、終戦記念日に~「最後の空襲」の話(2020,8,15)

【最後の空襲とは】

◎75年目の終戦記念日です。児文協の創立75周年も7ヵ月後ということになります。もっとも、8月15日が「終戦記念日」であることを即答できる日本人の割合も結構減っているのかもしれません。

  さて、僕はここ数年、その前日の14日のことを追いかけてきました。1945年8月14日です。この日、日本はポツダム宣言受諾を連合国側に通告し、翌日の天皇によるいわゆる玉音放送となるわけですが、アメリカ軍による日本への空襲は、8月14日深夜、いや15日未明まで続けられました。「ついで」の所を含めると、かなりの箇所になりますが、この日の主な爆撃目標は、小田原や熊谷、山口県の岩国、愛知県の豊川、群馬県の伊勢崎などで、熊谷は埼玉県でほぼ唯一の本格的な空襲被害として記録されることになりました。

  これらの町と並んで目標となったのが、秋田の土崎という町です。爆撃は未明の3時過ぎまで続いたといいますから、まさに「最後の空襲」です。土崎は、今は秋田市に含まれていますが、日本海に面した港町で、秋田市と土崎の関係は、東京と横浜といったところでしょうか。秋田市ではなくなぜ土崎がターゲットになったかといえば、当時秋田には油田があり、その精製工場やタンクが土崎にあったからです。日本で石油が獲れていたことを知る人は少ないでしょうが、新潟や秋田には油田があったのです。一説には、終戦になってもそれを認めない一部の部隊が飛行機でやぶれかぶれの特攻攻撃をかけてくるのを阻止するため、飛行機燃料をなくそうとして……という話もありますが、これは後付けのような気がします。アメリカ軍は当初の予定通り、14日夜の空襲をやめなかった、ということでしょう。

◎街とは少し離れた石油タンクが狙いということで、人的な被害は熊谷などに比べると少なかったのですが、それでも子どもを含む250人以上の人が犠牲となりました。よく広島や長崎の原爆に対して、「せめてあと十日(あるいは一週間)早く戦争が終わっていれば……」という言い方がありますが、14日夜の空襲で家族を失った人たちの悲しみは、本当にやり場のないものだったのではないでしょうか。そして、その悲しみ、怒りは、日本は(明らかに敗戦は必至だったのに)なぜもっと早く戦争を終わらせることができなかったのか、という問いにつながるはずです。そうしたこの戦争の不条理をある意味象徴しているのが、「最後の空襲」であるようにも思えるのです。

【空襲の絵本を】

◎この土崎空襲について、僕はほとんど知りませんでしたが、十年ほど前からとても気にかかるようになり、(戦後70年の)五年前に、その二十年前(つまり戦後50年の際)に作った絵本『麦畑になれなかった屋根たち』(永島慎二・絵)を再刊してもらったのを機に、なんとかこちらも絵本にできないかと思うようになりました。奇しくも、『麦畑~』は、B29による本土への初空襲(東京・武蔵野の中島飛行機の工場が目標でした)を題材にしており、こういう言い方は不謹慎かもしれませんが、初空襲と最後の空襲を絵本にすることができたらいいな、とも思ったわけです。

 そして、本来なら、このページで絵本の刊行を報告できる予定だったのですが、絵の方が間に合わず、先延ばしとなりました。実は絵をお願いしたのは、「味いちもんめ」などで知られる漫画家の倉田よしみさんで、倉田さんは同じ秋田でも、まさに土崎のご出身。そして後で知ったわけですが、僕の高校の後輩でもありました。その倉田さんの絵で絵本ができるのは僕にとっては願ってもなかったことで、「75年目の8月」を逃したことは残念ですが、絵本ができましたら、このページでも紹介させていただこうと思います。

2020/08/15

7、ラジオに電話出演しました(20,8,5)

【結構ドキドキでした】

◎ようやく梅雨は開けましたが、コロナ禍は開けないどころか、ますます先行き不透明ですね。協会の事務局は、機関誌発行の実務などの関係で、全面テレワークにはできないのですが、勤務の曜日や時間を見なおすなどの体制を取ることにしました。

  さて、前回(臨時号?)のブログでお伝えしたように、昨日、8月4日の夕刻、茨城放送のFMラジオに電話出演しました。繰り返しになりますが、コネクト(つながる、という意味ですかね)という番組の中の「日本アソシエーツ図鑑」というコーナーで、6時15分から15分ほどパーソナリティの質問に答える形で、児童文学者協会について、そして児童文学や読書について話をしました。こうした形の“生出演”は初めての経験でしたが、目の前のパソコンは協会のホームページにして(聞かれて分からないことが出てきた時の用心に)、茶碗に麦茶を半分くらい入れて、スタンバイです。

 3分ほど前にディレクーから電話がかかってきて、「そのままお待ちください」ということで、電話口からラジオの放送が聞こえ、やがて「藤田さーん」という呼びかけが聞こえました。そこまで結構ドキドキでした。

【番組では……】

◎その30分以上前から、FM水戸局に合わせて番組を聞いていたのですが、「今日のアソシエーツ(協会)は児童文学者協会です」ということで、リスナーから児童文学にまつわる思い出を募集していたらしく、それがいくつか紹介されていました。その点では雰囲気としてはウェルカムだったわけですが、逆にあまり細かいことを聞かれても困るな……と、小心者の心配はつきません。

 実際には、結構基本的な質問で「そもそも児童文学というのは、どういう定義なのですか?」「児童文学者協会というのは、作家団体ということですか?」「協会の創立は?」といったことから、「藤田さんが児童文学に関心を持ったきっかけは?」といった僕自身についての質問、そして後半は「読書というのは、どんな意味があるとお考えですか?」といった、読書をめぐる質問が続きました。気がつくと、結構気持ちよくしゃべっていて、15分に近くなっています。知らず知らず、こちらがしゃべりやすいように誘導してくれる感じで、プロの聞き手というのはさすがだなと思いました。

◎もう15分間近になって、「最後の質問です」ということで、「児童文学者協会として、今後どんなことに力を入れていきたいですか?」と聞かれ、これはまったく予想していない質問だったのですが、「若い書き手を育てたいことです」という答がすんなり出てきて、自分でも「ああ、そうなんだ」と思えました。それで僕は無事にお役御免。電話がさっきのディレクターに変わり(若い女性という感じでしたが)、「ありがとうございました。私も本が好きで、それで今回お願いしたんです」と言ってくれて、うれしい気持ちで電話出演を終えることができました。

◎せっかくなので、再びラジオをFM水戸局に合わせて、番組の続きを聞いていたのですが、まもなくエンディングとなり、リスナーからのメールがいくつか紹介されました。その中で「わたしも児童文学者協会の会員です」というメールがあり、びっくりしたのですが、聞いていたら、どうやらそれは茨城県民で詩人の小泉周二さんでした。そして、彼の最新詩集「たたかいごっこ」のタイトルと、その解説を書いているのが「藤田のぼるさんです」ということも紹介してくれました。小泉さんは友人でもありますが、僕が大好きな詩人で、今年4月に出た詩集の解説を書かせてもらったのです。そんなこともあり、彼にはこの出演のことをメールで知らせていました。ちょっとサクラっぽかった(笑)嫌いはあり ますが、結果的に詩集のこともアピールできて、良かったです。

  あとで録音したCDを送ってもらうことになっているので、読書のことなど、自分がどんなふうに話したのか、改めてちゃんと聞いてみようと思います。そして「若い会員を育てたい」という言葉がウソにならないように、取り組んでいきたいと思ったことでした。

2020/08/05

6,5 急なお知らせです~茨城と近県の方々に~(20,7,29)

【茨城放送FMラジオで】

◎茨城県(および周辺)の会員の方々に限定ですが、お知らせしたいことができました。というのは、茨城放送のFMラジオの「コネクト」という番組の中に「日本アソシエーツ図鑑」というコーナーがあり、そこから協会に出演依頼がありました。

 これは全国のいろいろなアソシエーション(協会)から話を聞き、それを“図鑑”にまとめようという企画で、局のホームページを見たら、「日本合コン協会」とか「日本だじゃれ活用協会」とか、「そんな“協会”があるんだ!?」という感じのところが多かったようですが、そんな中で良くも悪くもまともすぎる(?)児童文学者協会に依頼が来たのは、夏休みということで、子どもたちの読書のことなども聞きたい、というようなことらしいです。

◎というわけで、8月4日・火曜日の6時15分から、僕が電話出演する、という次第です。「どういう感じなんだろう?」と思って、一週間前の(毎週火曜日にこのコーナーがあるということで)昨日、試しにFM茨城に周波数(94,6MHz)を合わせてみたら、思いの外ちゃんと聞けました。僕の家は埼玉県の真ん中よりやや南という位置ですから、茨城県だけでなく、福島県、栃木県、それに東京や千葉の大半はエリアに入るのではないでしょうか。

◎ちなみに、この日は「日本カレーパン協会」の方が話されていました。カレーパンの愛好者で構成される「協会」ということで、後でホームページを見たら、とても“立派”な協会でした。どれくらいのリスナーがいるかわかりませんが、一人でも「講座を受けてみようか」などと思う人がいたら、うれしいのですが……。

2020/07/29

6、斎藤隆介さんのことなど~児文協と僕②(20,7,25)

【斎藤隆介さんのこと】

◎関東は本当に毎日雨ですね。外国の小説だったか何かの記事だったか、日本の梅雨を「雨季」と訳しているのを見たことがあり、「なるほど、そう言われれば“雨季”なんだ」と思った覚えがあります。「雨季」が明ければあの酷暑が待っているのでしょうが、やはり梅雨明けが待たれます。

 さて、ちょうど一週間前の土曜日(18日)ですが、協会の事務局に着くと(コロナ感染のリスクを避けるため、なるべく休日に赴いています。今日も行くつもりでしたが、さすがにやめました)、パソコンの前に僕宛の手紙が置いてありました。事務局長時代と違って、僕宛の手紙が協会の方に届くというのは今はあまりないのですが、裏返してみると横浜の住所で覚えのない名前です。開封すると、ワープロの手紙とコピーが一枚入っていました。読んでみると、確かに未知の方で(年を取ると名前を失念するというパターンも少なからず)、斎藤隆介について調べているのでご教示願えないか、というような内容でした。

 今、斎藤隆介で一番ポピュラーなのは『モチモチの木』でしょうか。『ベロ出しチョンマ』という作品集の中の「モチモチの木」を始めとして、「八郎」「花咲き山」など、たくさんの作品が、滝平二郎さんの切り絵とのコンビで、どれもロングセラーの絵本になっています。隆介さん(と、僕は呼んでいます)は、協会の理事でもありました。実は、何を隠そう(というほどのことでもありませんが)僕は大学一年生のときに、その『ベロ出しチョンマ』の中の、特に「八郎」と出会ったことで、児童文学を読み始めたのです。

◎お手紙をくださった方(Y氏)はスポーツイベントの仕事などをされているのですが、お母上が秋田出身の方ということで、いちいち注釈が入りますが、隆介さんは東京生まれですが、太平洋戦争末期に秋田に疎開、戦後もそのまま秋田に住み続け、終戦後の一時期は地元紙の秋田魁新報の記者でした。おそらく、この「秋田時代」がなければ、上記のような創作民話は生まれなかったでしょう。それで、Y氏の母上のご実家は秋田の旧家らしいのですが、昔その旧家に伝わる伝説を聞くために魁新報の記者が訪ねてきたというのです。同封のコピーは、その伝説でした。そして、その記者というのがどうも斎藤隆介さんらしいということで、Y氏は母上のためにも斎藤隆介について調べ始めた、という経緯のようでした。それで、児童文学の世界で隆介さんとつながりのある人を、ということで、僕にたどりついた、というようなことでした。

【児文協と僕②~夏の講座のこと~】

◎ここで急に「児文協と僕」になるのですが、②とあるのは、6月15日付のブログで、僕が初めて児文協と出会ったのが、学生時代に秋田の書店で『日本児童文学』を見つけたことだと書いたからです。それを①として、その次の児文協との出会いに、斎藤隆介さんが関係してくるのです。僕が大学の、二年目の四年生をやっていた年ですから、1972年ですが、この年の夏、山形県の上ノ山温泉で、児文協の夏の講座が開かれました。

 ここでちょっと横道に逸れますが、かつて協会では、毎年2泊3日の夏の講座がありました。始まったのは1967年で、「言語教育と幼児童話夏季講習会」という名前でした。協会30年史の年表では参加者400人となっています。僕が参加した72年は、ですから第6回で、名称も少し変わり、「幼児教育と幼年文学夏期講座」となっています。なぜ「幼年」かというと、とにかく人を集めることを考えて、「幼年」をつけると、幼稚園の先生や保育園の保母さんたちが、夏の研修として園から支給される費用で参加できるー―それを当て込んで、ということだったらしいです。この夏期講座がその後「夏のゼミナール」になり、さらに「サマースクール」になり、90年代まで続けられました。今の「がっぴょうけん」は、泊りがけではないので、その一部復活という趣きでもあります。

◎さて話が1972年に戻りますが、なにしろ、秋田新幹線はおろか、東北新幹線もまだない時代です。それが隣県の山形で児文協の講座が開かれるというわけですから、僕が飛びついたことは言うまでもありません。そして、プログラムを見て、さらに狂喜(?)しました。開会の記念講演が、斎藤隆介さんだったからです。児童文学者協会の人たちに直接会えるばかりか、僕をこの世界に引きずり込んだ斎藤隆介さんの講演を聞けるわけですから、僕にとってこれ以上の幸運はありません。問題は安くない参加費で、アルバイト代では間に合わず、確か次兄に(僕は父がすでに亡くなっており、学費などは長兄の世話になっていました)たかったような覚えがあります。

 上ノ山温泉のホテルもなかなか豪華でしたが、講演で一番印象深かったのは、隆介さんが「八郎」を朗読したことでした。後で知ったことですが、彼は芝居の世界にしばらく身を置いていて、朗読はお手の物でした。全編が秋田弁で書かれたこの作品、だからこそ僕はこれを読んでショックを受け、児童文学の世界に魅せられたわけですが、作者本人の朗読が聞けたわけですから、満足この上なしでした。

◎さて、その夜のことです。なにしろ400人規模ですから、分科会も講師の数も多いです。その講師たちをそれぞれに「囲む会」というのが、一日目の夜に設定されていました。当時、斎藤隆介は、言わば人気絶頂の時代で、「斎藤隆介さんを囲む会」は、かなり広い場所が用意されていました。50人まではいなかったかもしれませんが、一クラス分くらいの人数は優にいたと思います。

 ところが、肝心の斎藤隆介がなかなか現れません。一同やや待ちくたびれたところで、スタッフの人が現れ、「すみません。斎藤先生はご体調がすぐれないので、本日はいらっしゃれません」とのこと。なんということか、「金返せ!」の世界です。みんなぞろぞろ引きあげかかった時に、すっくと立った一人の若者がいました。まあ、僕が22歳の時ですから、「若者」と言ってまちがいないでしょう。その彼が(僕ですが)言うには、自分たちは斎藤隆介の作品が好きだから、ここに集まったのではないのか。だとすれば、ご本人が来ないのは誠に残念ではあるが、せっかく集まった私たちで、斎藤隆介の作品について語り合えばいいじゃないか、おおよそそのようなことを若者は口走りました。

「なに、こいつ。偉そうに出しゃばって」という反応が3分の1、「そう言われればそうだなあ……」という反応が3分の1。残りはどちらともつかないような人たち。結局その「そうだなあ」の人たちが残って(十数人くらいだったでしょうか)、じゃあ、斎藤隆介作品について語り合いましょうか、となった、まさにその時だったと思います。さっきのスタッフさんが「斎藤先生がいらっしゃいました」とのたまわったのです。

◎そのあと、隆介さんがどんな話をしたのかは、まったく覚えていません。彼が本当のファンだけを残すために仕組んだのか、たまたま結果的にそうなったのか……。それから数年後ですが、今度は本当に隆介さんと話ができるようになった時、その時のことを聞いてみましたが、覚えておられませんでした。児文協と初めて直接出会ったその山形の集会のことでは、他にもいくつか思い出がありますが、なんといっても、あのこっそりと現れた隆介さんの姿が一番印象的です。

 そんなわけで、横浜のY氏にはこうしたエピソードはいくつかお話できますが、さて彼の求めているような手助けができるかどうか。ともかくも、斎藤隆介にまつわるお手紙をいただいたこと自体、僕にとってはうれしいできごとでした。

2020/07/25

5、テレビをめぐって(20,7,15)

【昨日の理事会で】

◎昨日、7月理事会(やはりリモートでしたが)があり、各部(委員会)の部員(委員)を委嘱する方を決めました。今期は、部長・委員長も基本的に留任となったので、必然的に部員・委員も継続の方が多くなったのですが、一方で協会の世代交替という課題もあり、そのバランスを取りつつの人選となりました。もう一つ、5月に実施できなかった学習交流会を秋にやろうという話が出て、その方向で決まりました。当初はリアル開催を目指しつつ、無理そうならリモートで、という話でしたが、昨今の状況も踏まえて、またリモートの方が全国から参加していただけるというメリットもあり、最初からリモート開催でいこう、という話になりました。中身については、もう少し定まってからお伝えします。10月後半の土曜日の予定です。

◎リモート会議も少し慣れた感もありますが、その度に「今回は、ちゃんと画像が映るかな」と心配になるのは、こういうことに慣れていない世代故でしょうか。実際、昨日の理事会でも、なぜか(声は聞こえるけれど)顔が出てこないという人が若干名いました。それはまあいいとしても、リモートだと基本的に発言している人しか映らないので(5、6人であれば全員が画面に出るように設定しますが、20人以上だとその設定は無理があり)、結局一度も画面に出てこないという人が多いことになり、「みんなで討議した」という雰囲気になかなかなりません。リアル会議であれば、発言しなくても、表情やボディーアクションで、参加者の反応が分かるわけで、改めて「集まって話し合う」ことの意義を感じています。8月は例年理事会が休みで、次の9月理事会は(広い会場を取るなどの措置をして)できればリアル理事会にしたいなと願っています。

【話題はガラッと変わりますが……】

◎今回は、「テレビをめぐって」という、よくわからないタイトルですが、とりあえずは、児文協とも児童文学ともまったく関係のない個人的な話題です。(「理事長ブログ」ですが、まあそういうことも含みますので、ご了解ください。)というのは、半月ほど前になるでしょうか、NHKの「ファミリーヒストリー」という番組がとても印象的だったからです。たまたまつけていたテレビで後半を見て、再放送で前半を見ました。ご覧になった方もいらっしゃるかと思いますが、その回は柳葉敏郎さんがゲストでした。実は柳葉さんは僕と同郷(秋田県大仙市)で、彼は今も家族で秋田に住んでおり、僕の田舎にいる甥や姪と同世代なので、「この前、参観日に来たらしいよ」とか、たまに話題に出たりしていました。そして、彼が学校の先生の家系であることも聞いていました。それは僕の家も同様なので、二重に親近感を持っていたわけです。そんな次第で、たまたま見たテレビで喰いついたわけでした。

◎今回初めて知ったのは、先生はお母さんの方で、お父さんの方は映画の看板を描く仕事(内田前理事長の若い頃のお仕事ですね)だったということ。これはちょっと驚きました。というのは、田舎では大体夫婦で先生というパターンが大半だからです。今はともかく、かつては田舎で大学を出てつける仕事というのはきわめて限定されているので、いわゆる“つり合い”ということを考えて、先生同士、あるいは先生と公務員とか、そういうパターンが圧倒的に多かったのです(僕の兄や姉たちもそうでした)。そんなわけで、僕は柳葉さんの家も、ご両親が先生だったのだろう、と思いこんでいました。ですから、お父さんがそういう仕事だったというのは意外だったわけですが、結婚生活としてはやはり難しかっただろうと思います。実際、柳葉さんが6歳の時にご両親は別居、そして彼が8歳の時にお父さんは亡くなったということです。

◎ただ、そこまでであれば、このブログに書こうとまでは思わなかったかも知れません。むしろ、ドラマはそこからでした。これは柳葉さんもまったく知らなかったらしいのですが、そのお父さんが実は二度目の結婚で、一度目の結婚で娘がいた、つまり、柳葉さん(上記のような事情で、一人っ子です)には実はお姉さんがいた、ということが、今回のNHKの取材で、初めて分かったということなのでした。そのお姉さんの側も、もちろん自分に弟がおり、それが柳葉敏郎だということは、驚天動地のことだったわけですが、戦前とか戦時中ならともかく、この時代にそんなことがあるのだなあと、びっくりでした。これで思い出したのが、2005年の協会賞受賞作『4つの初めての物語』(さとうまきこ・作)の中の「初めてのお兄さん」です。主人公の6年生の真理奈は、お姉ちゃんとの二人姉妹ですが、ある時、「実は、お兄さんがいる」と聞かされます。この場合も、お父さんが実は一度結婚していて、その時に息子ができていた、という設定です。お母さんはそのことを知っていましたが、娘たちには知らされていなかったわけです。ところが、その「お兄さん」が、就職を機に訪ねてくる、というのです。これを聞いた真理奈とお姉さんが動揺しつつも、“お兄さん”をどう受け入れていくか、というストーリーです。この話も含めて4つの話からなるオムニバス形式のこの作品は名作だと思います。未読の方にはお勧めします。

【児文協とテレビ?】

◎後で思い出したのは、(さすがに「ファミリーヒストリー」に取り上げられた児文協会員はいないと思いますが)かつてNHKで、「わたしが子どもだったころ」だったか、タイトルは正確ではありませんが、その人の子ども時代をドラマ仕立てにして見せてくれる、という番組がありました。もしかして、「ファミリーヒストリー」と同じプロデューサーかな? その番組に出演されたのが会員の上條さなえさんで、それは彼女の『10歳の放浪記』を素材にしています。上條さんは家庭の事情で10歳の頃、お父さんと二人で池袋あたりの簡易宿舎などを転々とする生活を送った、その頃のことを題材にした作品ですが、お父さん役はあの? 嶋田久作だったと思います。今ウィキペディアで検索したら、2007年4月の放送、その前回は谷川俊太郎、前々回は野村克也でした。

◎「テレビと児文協」といえば、これは創立70周年の協会の(文学賞贈呈式の後の)パーティーで、僕が“余興”として「児文協クイズ」というのを5問ほど出したのですが、その内の一つが、「藤田圭雄元会長が出演したテレビ番組は何でしょう?」という問題で、答は三択で「1、のど自慢」「2、ニュース解説」「3、徹子の部屋」というものでした。

 正解は3の「徹子の部屋」で、結構皆さん、あたりませんでした。藤田圭雄(ふじた・たまお)さんというのは、歴代会長の中でも突出して長い九期18年会長を務められた方で、僕の事務局生活のほぼ半分を占めています。たまたま同姓なので、親子か親戚? と思われていた方も少なからずいましたが、「他人」です。中央公論社の編集部長を務めるなど出版界で重きをなした方で、童謡研究が専門、絵本『あおくんときいろちゃん』の翻訳などもされています。その藤田圭雄さんが「徹子の部屋」に出演されて、藤田さんが親しかった飯沢匡さん(黒柳さんが若い頃出演していた「ブーフーウー」の作者)のことなどが話題になっていました。藤田さんは今協会事務局のある神楽坂に近い所のお生まれで、その「江戸っぽい言葉」を黒柳さんがほめていらしたことも記憶に残っています。

◎さて、今回は大分長くなってしまいましたが、最後にクイズです。「今、児文協会員で、一番テレビに出ている人は誰でしょう?」……………、正解は、岡田晴恵さん。今や「コロナの女王」の異名をとる岡田さんですが、「病気の魔女と薬の魔女」シリーズを出された時に、子ども向けの本を出したので、ということで、確か岡田さんの方からご連絡をいただいて、入会していただいたように覚えています。朝の5チャンネルを見る度に、ひそかに声援を送っています。(このブログの日付、記事の最後には表示されますが、わかりにくいので、今回からタイトルに日付を入れ、また番号をつけました。)

2020/07/15

4、ちょっと(?)うれしい話(20,7,5)

【事務局で……】

◎「理事長ブログ」の4回目ですが、会報の僕の就任あいさつ文を読んで初めてこのブログを開いてみたという方もいらっしゃると 思います。まあ、たいしたことは書いていませんが、よろしければ遡ってのぞいてみてください。それから、会報の僕の写真、花と一緒に写っていますが、これは『日本児童文学』の発売元である小峰書店の小峰広一郎社長から「理事長就任祝い」ということで事務局に送られてきたものです。こんな豪華な花をいただいたのは、大分前のことになりますが、ロッテマリーンズが日本一になった時に、当時選者を務めていた童話コンクールを仕切っていた広告代理店から事務局に花が送られてきて以来のことで(僕が長年のロッテファンであることについては、また改めて……)、その時はただびっくりしましたが、今回は小峰さんからということで、じっくりとうれしく感じ、次良丸さんに写真を撮ってもらいました。

◎私的なことになりますが、僕は家に出産を控えた娘が戻ってきていたこともあって(おかげさまで、5月初めに無事に出産しました)、4月5月は、感染のリスクを考え、事務局にはほとんど足を運べませんでした。6月あたりからぼつぼつ週に一・二度、ラッシュの時間帯は避けながら埼玉の自宅から神楽坂の事務局まで出向いています。文化団体の中には、4・5月あたりには事務所を閉じたところもあるようですが、児文協の場合は雑誌を定期発行していて、その編集実務を担当している次良丸さんは、執筆者や印刷所のやり取りなど、テレワークというわけにはいきません。また、宮田さんもこの時期は決算や予算という大変な仕事があり、帳簿などの資料を全部持ち帰るというのもかえって大変なこともあり、ほぼ通常通りの勤務でした。また総会がウェブ開催になったことで、その準備が例年よりかえって大変だった面もあり、二人のことがとても気づかわれましたが、幸い無事に乗り切ってもらえて、本当に良かったと思っています。

【『日本児童文学』掲載作品のこと】

◎先週の月曜日だったか、その日は午後から他所で別の会合があり、事務局には短い時間しかいられなかったのですが、ちょっとうれしい話を聞きました。『日本児童文学』に掲載された作品を、某社で月刊絵本のテキストに使いたいというお話があったということで、会員からお知らせがあったというのです。月刊絵本の著作権に関するご相談も含めてのお電話だったようです。ことのついでに書いておくと、『日本児童文学』に掲載された作品を出版することについては、協会や小峰書店の許諾が必要といったしばりはありません。どの出版社からどんな形態で出版するか(しないか)については、著者の判断に任せられます。(出版や作品集に収録などの場合、もちろん報告はいただきたいですし、可能な範囲で、元が『日本児童文学』に掲載された作品であることを表記していただければと思いますが。)

また、これは今週の木曜日(2日)のことですが、午後から組織部長のいずみさんに来ていただいて、来年3月の大牟田セミナー(これについても、また改めて)に向けての打ち合わせをしました。その前にメールチェックをしていたら、この数日の間に、『日本児童文学』掲載作品についてのメールが二つあり、一つは京都の中学校の校長先生から、掲載された詩を「校長室通信」に掲載したいとの依頼、もう一つは中国の方から(日本在住の方かと思われますが)、前に賢治と南吉のオマージュ作品を募集したことがありましたが、その賢治のオマージュ作品の入選作を翻訳して中国の雑誌に掲載したいというものでした。前者については、作者に連絡してOKをいただき、後者については、まずはその雑誌の性格などについてお知らせいただくよう返信しました(僕がやったのではなく、次良丸事務局長が)。

たまたま同じ時期に重なった、ということでもありますが、『日本児童文学』がいろいろなところで読まれているということを改めて実感し、とてもうれしく思いました。また、京都の中学校の例は、以前なら無断で使用されていたケースかもしれませんが、著作権についての認識が多少とも広がっていることの表れでもあるように思います。ちなみに、この校長先生は、古本屋で『日本児童文学』を入手されたようで、できれば購読してほしいところです(笑)。

うれしいついでに(というと変ですが)もう一つ。事務局に、学研プラスから『うちにカブトガニがやってきた!?』という本が届いていたのですが、これは協会と学研プラスが共同で募集している「感動ノンフィクション大賞」の優良作品受賞作で、これまで最優秀賞受賞作は何冊か本になっていますが、佳作に当たる優良賞で学研から出版されたのは初めてだと思います。生きた化石ともいわれるカブトガニを家で飼育し卵から孵すという話で、とてもおもしろい味わいのノンフィクションです。ぜひ図書館へリクエストして読んでみてください。

◎この「理事長ブログ」、前にも書きましたが、一応「5のつく日」を目途に更新していく予定です。律儀に「10日に1回」にしなくてもいいような気もするのですが、長く続けるためにも、これくらいのペースがいいかなと思っている次第です。今回は“今”の話題になりましたが、これも前に書いたように、むしろ児文協に関わる“昔話”がメインになると思うので、楽しんで(?)いただければ幸いです。

2020/07/04

3、『日本児童文学』編集長のことなど(20,6,25)

 

【新理事会で】

◎6月22日の月曜日、新メンバーによる総会後初めての理事会が、やはりウェブ会議の形で開かれました。協会の役員は2年任期で、偶数年の総会は理事・監事を選出し、活動方針案を策定する、言わば「表の総会」の年になり、奇数年はそれがない「裏の総会」になります。今年はその「表」の方だったわけですが、この年の6月理事会は、常任理事を選出すると共に、各部の部長(および委員会の委員長)を決めるのがメインになります。協会には組織部など10の部と二つの委員会があります。

 やはりどの部もある程度の経験が求められる面があり、かつては同じ人がずっと一つの部の部長を続けるというケースもあったのですが、それはそれで弊害もあり、ここしばらくは、「二期(4年)務めたら交替」という原則でやってきました。但し、国際部のように、特別な知見が求められる部もあり、「原則として」ということになりますが。

◎部長が決まると、その部長から部員に入ってほしい人をあげてもらい、これを7月理事会で調整し(あまりダブったりしないように)、部員の委嘱をします。ですから、新しい部・委員会の体制ができるのは(お断りがあったりで)8月一杯くらいまでかかります。一方で、前の部が企画していたイベントなどもあるわけで、6月から10月くらいまでは、新しい部と前の部とが並行して仕事をすることになり、会議の数も増えますし、その間の引き継ぎや調整ということも必要になってきます。

 それで、今コロナでリアル会議ができにくくなっている中で、各部の体制が大きく入れ替わるのはいろいろ支障が出てくることも予想され、今回だけは「二期4年で交替」という原則を外して、基本的に前部長に続けてもらうことにしました。ただ、部長の中でもっとも“激務”といえる機関誌部長(『日本児童文学』編集長)は、高橋秀雄さんがすでに二期務めていて、さらに続けてほしいというのは無理があり、ここは新しい方にお願いしようということになりました。

 この結果、新編集長には奥山恵さんが推薦され、空席となった研究部長には、理事に復帰された河野孝之さんが、そして濱野京子さんが理事から降りられたので、濱野さんが委員長だった子どもと平和の委員会は、西山利佳さんが新たに委員長を務めることになりました。他の部・委員会はすべて再任、また常任理事についても、加藤純子副理事長を含めて留任となりました。

【『日本児童文学』編集長のこと】

◎ということで、来年の1・2月号から奥山編集長を始めとする新しい編集委員会の担当になります。この編集企画の仕事はすぐにも始めなければならず(従って、機関誌部だけは7月理事会を待たずに先に発足します)、上記のようにしばらくは(11・12月号まで担当する)旧編集委員会と新編集委員会が並行して仕事を進める形になります。ちなみに、1・2月号が例年創作特集なのは、新しい編集委員会が(最初の号で)あまり企画で悩まなくても済むように、という含みもあります。

◎奥山さんが編集長を引き受けますと話してくれている画像を見ながら、僕は自分が編集長を引き受けた時のことを思い出していました。1992年ですから、今からもう28年前のことです。話がいちいち古いですが、さすがにまだ生まれていなかったという会員はほとんどいないですね(笑)。

『日本児童文学』が今のように、隔月刊・自主発行の体制になってからすでに20年以上になりますから、月刊で出ている時代を知る人もぼちぼち少数派かもしれませんが、当時は文渓堂が発行元で、月刊でした。実はその二年前、1990年の時にも理事会で編集長就任を求められたのですが、固辞しました。自信がなかったからということもありますが、(この時はちょうど40歳でした)“若手”に仕事をおしつけてなにもフォローしない協会の体質に反発を覚えていた、ということもありました(まあ、いろいろあります)。それで、2年後にはさすがに引き受けたわけですが、やはり一番に考えたのは、どなたに編集委員をお願いしようかということでした。真っ先に思いついたのは、相談相手としてぜひ編集委員会に入ってほしいと思った宮川健郎さんでした。ただ当時彼は宮城教育大学の先生で仙台に住んでいたわけですが、評論仲間として若い頃からの友人でもあり、なんとかお願いできました。編集長として僕が考えていたことの一つは、創作、ノンフィクション、詩、評論、読書運動といったジャンル同士の交流を図りたいということで、そういうモチーフから、先輩で抜群の人脈を持つ砂田弘さんを顧問役に、きどのりこ、国松俊英、重清良吉(亡くなられましたが、すぐれた詩人であり、創作に対しても深い造詣をお持ちでした)、そして(読書運動のベテランであると共に作家でもある)山花郁子の皆さんに委員をお願いしました。今思い出しても、ベストメンバーだったな、と思えます。

◎編集委員会時代の一番の思い出は、仙台・秋保温泉での編集会議でしょうか。いつも宮川さんに東京に来てもらうので一度はこちらから行こうということで、仙台での編集会議となったのです(言うまでもなく、みんな自前です)。これが特に印象深いのは、その時に話し合われた特集が安房直子さんの追悼特集になったことで、確か仙台の会議が先に決まっていて、安房さんが亡くなったことを受けて急きょ追悼特集になったのではなかったかな。安房さんが10歳から13歳までを仙台で過ごしたというのも、この時に初めて聞かされてびっくりしたのではなかったかな。そしてこの特集の年譜で、初めて母の安房久子さんが実の母ではなく叔母であったことが公表されたのでした。93年10月号でした。

 最後は昔話となりましたが、奥山新編集長、そして新編集委員会を、よろしくお願いします。

 

2020/06/25