藤田のぼるの理事長ブログ

82、お金を拾った話(2022,10,5)

【市役所支所の帰りに】

・前回の「懸賞に当たった話」に続いて、「お金を拾った話」というショーモナイ話題で恐縮ですが、2、3日前に市役所の支所に、必要があって戸籍謄本を取りに行きました。支所(公民館も一緒ですが)は、歩いて5分もかからない所にあり、それでも自転車で行く場合もありますが、天気も良かったので歩いていきました。戸籍謄本を受け取ったら、手数料が450円ということで、「結構かかるんだな」と思い、500円玉をだして50円のお釣りをもらいました。

 その帰り道、支所と僕の家のちょうど中間ぐらいのところでバス通りを横切ります。そこが横断歩道になっているわけです。そこを渡る途中何の気なしに下を見ると、光るものがあります。500円玉に見えました。拾ってみたら、本当に500円でした。「これは、市役所の神様(笑)がお金を返したくれたのかな」と思い、持って帰り、よく洗って財布にしまいました。何円以上だと警察に届けなければいけない、という規定があるのでしょうか。まあ、ここに書いても捕まることはないと思いますが。

【お金を拾った話】

・思い出してみると、お金を拾ったことで記憶に残っているのは2回。1回目は子どもの時で、やはり500円でした。といっても、僕が小学校中学年くらいの時ですから、1960年前後、今の価値でいえば5000円くらいでしょうか。当時は「500円札」でした。学校の帰りで、友だちと一緒でしたが、ちょうど近くに派出所があり、勇んで(だったような気がします)届けに行きました。「良く届けてくれたね」みたいなことを言われたような気がします。書類を作ってくれて、家に帰り、母親に報告したのだと思います。

・このシステムは昔も今も変わらないと思いますが、拾われたお金は半年間保管され、持ち主が現れなければ拾った人のものになります。そのことは派出所で教えられたと思いますが、子どものことですから、忘れていたのではないでしょうか。やがて母親から半年が過ぎたことが告げられ、兄が銀行に取りに行ってくれました。兄といっても末っ子の僕より17才上で、学校の先生でした。当時でも銀行で500円を下ろすという人は少なかったようで(今のように機械で手軽に入れたり出したりするのと違い、下ろすとなれば、ある程度まとまった金額の場合が多かったようです)、窓口で500円を受け取るのは恥ずかしかった、と兄から言われた覚えがあります。その500円をどう使ったかは覚えていません。

・二度目は大学生の時でした。僕は秋田市の大学の寮に住んでいましたが、秋田駅の駅前広場で、銀行の封筒を拾ったのです。その時は一人だったように思います。拾ってみると、手の切れるような(という感じでした)1万円札が1枚と千円札が1枚入っていました。なにしろ、貧乏学生、場所がそこでなければ多分そのまま懐に入れたと思いますが、駅前広場という人が多い場所で、すぐ横に派出所があります。しかたなく(?)届けました。

 そこで書類を作ってもらったわけですが、今度は「半年後までに持ち主が現れなければ、自分のものになる」ということは知っています。ただ、銀行から下ろしたばかりのようだし、持ち主は当然現れるだろう、と思いました。

・「おっ」と思ったのは、半年後の日付でした。12月24日だったのです。ということは、その日は6月の24日(25日?)だったのでしょう。「こりゃあ、クリスマスプレゼントだな」と、内心笑ってしまいました。当時の1万円は今の5万円くらいでしょうか。僕からすれば大金で上記のように当然持ち主が現れると思いましたが、まあその程度のお金で、結局持ち主は現れませんでした。どうせ、もらえないだろうと思っていたので、このことは寮で吹聴していたので、もらった1万1千円は、寮の友だちやらで忘年会で(?)飲んで終わりだったと思います。

・このことを題材にして、大分前ですが、実話風の短編に仕上げたことがあります。学研の学年雑誌だったか。〈ぼく〉は、そのまま学生寮に住む大学生という設定。半年後の12月24日に1万円を受け取った帰り道、目の前をサンタクロースが歩いています。思わず後を追いかけるのですが、見失ってしまいます。その時に、子どもの頃にお金を拾ったことを思いだして、急に母親のことを思いだし、急いで家に帰るのです。1万円で、ケーキと母親へのプレゼントを買って。きっとこのお金は、そんなに遠くにいるわけではないのにちっとも家に帰らない僕への、サンタからのメッセージだと思いながら……。

 という話でした。考えてみると、10歳の頃に500円、20歳の頃に1万円ですから、その法則からすると40歳の頃に20万円を拾わないといけないのですが、72歳の今日までサンタはやってきません。今回500円拾ったのは原点に帰れ(!?)ということでしょうか。

2022/10/05

81、懸賞に当たった話(2022,9,25)

【「日刊ゲンダイ」のクロスワード】

・4、5日前のことです。郵便物の中に、「日刊ゲンダイ」からの封書がありました。「もしかして……」と思いました。新聞社などからの郵便物の場合、モノカキとしては、まずは原稿依頼を疑う?のが本来かと思いますが、「ゲンダイ」に関しては別の思い当たりがあったのです。クロスワードの応募です。 首都圏以外の方は、あまり馴染みがないかもしれませんが、タブロイド判の夕刊紙(普通の新聞と違って家で取っている人というのはごく少なく、駅の売店などで買います)は二紙あり、ひとつが「夕刊フジ」、もうひとつが「日刊ゲンダイ」です。「フジ」の方は産経新聞系で右寄りの論調が目立ちます。これに対して「ゲンダイ」の方は講談社の「週刊現代」系で、政権に対してかなり批判的なスタンスを取っています。以前、協会が学術会議の問題で理事会声明を出したとき、翌日だったか大きく報道してくれたのも「ゲンダイ」でした。

・僕は、事務所の行き返りなど、読む本がないような時、この「日刊ゲンダイ」をたまに買う時があります。上記の声明のニュースを見たのも、たまたまその掲載紙を買ったのでわかったのでした。結構ページはありますが、読むところは限られているので、時間が余ると、クロスワードパズルをやってみる時もあります。それなりに時間はかかりますが、まあ必ず全部解けます。

 大分前になりますが、せっかく解いたのだから、正解を応募してみようという気になりました。発表を見ると、大体応募は2~3千人位で、当りは何人だったか、数人という程度だったと思いますが、5千円のクオカードが商品です。これを何度か出したことがあって、はっきり覚えていませんが、半月ほど前にも出したと思うのです。

・開けてみると、やはり「当たり」のお知らせ、そして5千円のクオカードがまちがいなく入っていました。ものすごい、というほどではないにせよ、結構低い確率ですから、ちょっとびっくりしました。(応募の何日後かに、当選者として僕の名前が載ったはずですが、それは見ていません。)今まで出した回数もせいぜい5、6回というところでしょう。

【当たった、といえば】

・いわゆる“くじ運”という言い方がありますが、僕はまあそんなにいいわけでもないけれど、悪いわけでもない、という感じでしょうか。子どもの頃、マンガ雑誌か学年誌か、賞品からすると後者だったかも知れませんが、結構ちゃんとした水筒が当たったことがあり(3等くらいだったでしょうか)、なぜか赤い水筒だったので姉にあげた覚えがあります。

・宝くじは一度も買ったことがなかったのですが、もう二十年近く前になるでしょうか、芝居をやっている娘が、テレビの宝くじのコマーシャルに出るということがありました。西田敏行の後ろで踊っていた何人かの内の一人です。それで、この機会に買ってみようと、年末ジャンボだったか、通し番号のを一袋買いました。そしたら、なんと、いきなり1万円が当たったのです(1万円は4ケタの番号かな?)。 これにはびっくりしました。もしかして、自分はとてもくじ運がいいのでは、と思ってしまいました。

 以来、宝くじは買うようにしていますが、今まで初回を含め、1万円が3回当たっています。1回3千円かかりますから、これはまったく元は取っていないのですが、人に話すと、それは結構いい確率(長く買っても、一度も当たらないという人も少なからず)だとも言われます。まあ、〇億円を夢見て(その時は児文協に1千万くらいは寄付できるか!?)、とりあえずはハロウィンジャンボですね。

 今回は、なんだか暇そうな(笑)ネタになりました。そうそう、一昨日毎日新聞を見ていたら、池袋の芸術劇場で、10月に「世界のお巡りさん」コンサートというのがあって、すべてご招待、懸賞です。というので、スマホで検索したら、そのまま応募できました。これは以前に書いたかもしれませんが、某新聞の読者プレゼントで、初台の国立劇場のコンサートが当たったことがあり、それがウクライナのキエフ国立フィルでした。3年ほど前のことです。あのオケの人たちは、今どうしているのでしょうか。

2022/09/25

80、小樽、半田そして黒姫に(2022,9,15)

【小樽に】

・このブログは、基本10日毎の更新ですが、この間は僕としては珍しくかなりの“走行距離”を稼いだ日々でした。その手始めは、10、11日と小樽に行ってきたことで、児童文学ファンタジー大賞の選考委員会のためでした。

 すでにご存じの方も多いと思いますが、この賞は今回の第28回で終了となります。よく知られているように、大賞はわずかに2回、第1回の梨木香歩さん「裏庭」と第3回の伊藤遊さん「鬼の橋」のみです。委員になる前は「ぜひ大賞を」と思っていましたが、佳作すらなかなか出ないという状況で、最後の今回も最終候補作は3点ありましたが、佳作の次の奨励賞もなしという残念な結果になりました。 最終候補作は3作で、僕はそのうち1作はおもしろく読み、せめて奨励賞と思いましたが、賛同を得られませんでした。受賞作なし、というのも、この賞らしい終わり方といえるかもしれません。

・賞を今回で閉じることは2年ほど前から決まっていたこともあり、前回から新たに茂木健一郎さんとアーサー・ビナードさんが選考に加わりました。特に茂木さんのような他ジャンルの人の読み方、評価の仕方はなかなか新鮮で(かつ説得力もあり)、その点はおもしろかったです。「ファンタジー児童文学」を掲げた公募賞がなくなることはやはり残念ですが、東京ではなく、小樽に拠点を置く民間団体が、こうした大きな賞を実施してきたことは特筆されることだと思います。ちなみに、通算の応募数は5443作品ということでした。

【半田、そして黒姫へ】

・日曜日の夕刻に帰宅し、翌月曜日は協会の理事会でした。前回まではずっとリモートでしたが、コロナがいつ明けるか見通しにくい状況のなかで、集まれる人は集まり、リモートの人はリモートで、ということで、今回から“ハイブリッド”方式で理事会を開くことが決まっていました。理事長の僕としては、当初は事務所に出向いてリアル出席のつもりでしたが、前日に北海道から帰り、次の日の火曜日は半田市の新美南吉記念館に行かなければならず、体力的なことを考えて、今回はリモート参加のつもりでした。

 ところが、月曜日の午前中パソコンを開けると、ネットにつながりません。たまに、ルーター周りの配線がゆるんで繋がらなくなることがあるのですが、それも確認しましたが、相変わらず繋がりません。それが11時過ぎだったでしょうか。僕の家から神楽坂の協会事務局までは1時間半以上は優にかかります。ぐずぐずしている暇はないので、急きょ事務所に向かうことにしました。理事会は2時からでしたが、事務所についたのが1時45分くらいだったでしょうか。なんとかセーフでした。

・そして、火曜日、愛知県半田市の新美南吉記念館に向かいました。前も書いたように思いますが、僕は南吉記念館には年に3回出かける用事があり、夏の「事業推進委員会」、秋の「新美南吉童話賞選考委員会」、そして冬に同賞の表彰式です。今回はその事業推進委員会だったわけで、これは要するに館の運営に関して、外部の「有識者」にいろいろ意見を求めるための機構なのですが、去年から宮川健郎さんに加わってもらっています。半田市は、名古屋から名鉄線の特急で30分余りの距離です。その名鉄線の出発ホームで宮川さんと一緒になりました。そして、電車の中では那須さんの話になりました。ちょうど名古屋に向かう新幹線のなかで、那須さんの奥さんからラインが届き、広島ホームテレビで作成した那須さんの追悼番組をYouTubeにしたのを、送ってもらいました。それを宮川さんに見せながら、いろいろ話をしていたわけです。

 ふと気がつくと、止まった駅は知多武豊。本来降りなければならない知多半田駅を過ぎていました。あわてて降りて、記念館に電話し、戻りの電車を待って、大分遅刻して、記念館につきました。上記のように僕は通算すれば数十回記念館に行ってるはずですが、初めての乗り越しでした。

・会議は無事終わり、名古屋に戻りました。前は名古屋に泊まったりもしましたが、近年はその日のうちに帰るパターンが多くなりました。ただ今回はいつもとは違う旅程を組んでいて、名古屋から中央線経由で、長野に向かいました。というのは、長野県の黒姫童話館に行く用事があるのに、なかなかその機会が取れなかったので、「名古屋に行くついでに」黒姫に向かうことにしたわけです。

 名古屋から長野までは、松本を通って特急でちょうど3時間です。新幹線なら3時間あれば東京から大阪に行けますが(今ならもっと行けるかな)、在来線はやはり時間がかかります。それでも、5時40分に名古屋を発って、缶ビールなど飲みながらゆっくり長野に向かうのも(いささか疲れましたが)いい“旅”でした。

【黒姫童話館で】

・黒姫童話館に行こうとした一番の理由は、斎藤隆介関係の資料を見せてもらうためでした。以下、詳しく書き始めると相当長くなるのではしょりますが、黒姫童話館には、斎藤隆介夫人から童話館に寄贈された、原稿などの資料が保存されています。その中に、斎藤隆介の童話の言わば原点である「八郎」の原稿が含まれているのです。1950年に書かれた原稿ですから、僕の年と同じ、72年前の原稿です。このことは以前書きましたが、僕は「八郎」の原稿が童話館にあることは知っていましたが、これが1950年に書かれたオリジナルの原稿であることを知ったのは、結構近年のことです。僕の思い込みで、隆介さんがそんな古い原稿を保管しているはずがなく、後で原稿用紙に書き直したものだろうと思いこんでいたのです。それで、これが72年前の原稿だと知り、これは絶対見に行かなくては、と思っていました。

 今回、それが叶ったわけですが、この4月から館長になられた山崎玲子さんに黒姫駅まで迎えに来ていただき、「八郎」の原稿や、その他の資料をゆっくり、じっくり、見させてもらいました。本当に行って良かったです。行かなけれは絶対わからないことが、いくつかわかりました。出し惜しみするわけではありませんが(笑)、これについては、場を改めて、“発表”しようと思っています。

 僕は研究者ではなく、あくまで評論家だと思っていますから、今まで作家の(モノとしての)原稿に対する関心はほとんどありませんでした。ただ今回は、繰り返しますが、実物を見なければわからない発見がいくつかあり、そういう作業を遠ざけていた自分を反省する思いもありました。

 ということで、昨日の夜に帰ってきたわけで、最初に書いたように、僕としては珍しい強行軍でしたが、充分モトはとれた二日間でした。(なお、ネット接続は配線の問題とパソコンの方の接続がたまたまオフになってしまっていた二重の理由で、今朝ほど復旧しました。)

※那須さんのYouTubeは、広島ホームテレビ作成の「反戦への思い ズッコケ三人組と作者・那須正幹」です。結構長いです。https://youtu.be/JfOrFqNBPJQ 

2022/09/15

79、内田さんの本、高校生の時のこと(2022,9,5)

【内田麟太郎さんから】

・少し前に届けていただいた本は、『絵本のことば 詩のことば』というエッセイ集でした。全体が三章に分かれていて、第一章が「炭鉱の町から 故郷と家族」、第二章が本のタイトルと同じ「絵本のことば 詩のことば」、そして第三章が「出会った人々」という構成になっています。そこからもわかるように、絵本作家であり(ご本人は「絵詞作家」と自称されていますが)詩人である内田さんの文学論であると共に、なかば自叙伝風な内容、おもしろさの、誠に“読ませる”本でした。

・内田さんの来歴は、折りに触れ、うかがったり、読んだりしていましたが、大牟田での少年時代のこと、「プロレタリア詩人」だった父上のこと、六歳で死に分かれた生母と折り合いの悪かった継母のこと、そして若き日の詩人としての思想的な遍歴など、なかなかにドラマチックなのですが、例えば内田さんが生まれ育った大牟田には、家の近くだけで映画館が八館もあり、「絵本テキストを書いているときに、自分が映画監督になりテキストを展開しているのを感じる」といった一節には、なるほどと思わされました。

・中でも、いかにも内田さんらしくおもしろかったのは(と言っては失礼かもしれませんが)、高校時代のエピソードでした。そもそも数学がとても苦手だった内田さんがその高校に入学したのは、「いささか正当とはいえないやり方で」試験を通過したという告白付きですが、そのせいで数学はさっぱりわからず、三年間ほぼ数学の時間は寝ていたというのは、時代のおおらかさも感じさせます。そして、高校三年の時は遅刻の常習者で、それは憧れている同級生(女性です)がやはり遅刻の常習者で、毎日その後を追いながら登校するので否応なく遅刻になってしまう、という件は、その時の内田さんの表情が目に浮かぶようでした。卒業式の時はさすがに遅刻はせず、担任の先生から「いつもこの時間だとよかったのになあ」と言われた、というのですから、これも今なら考えられないような話です。ちなみに、その女性は内田さんのおつれあいではないようです(笑)。

・もう一つつけくわえると、この本は晧星社(こうせいしゃ)という出版社から出ています。僕もいささか縁のある出版社なのですが、これまで「ハンセン病文学全集」など、かなり硬派の本を出してきました。この出版社が、これから児童書も出していきたいということなので、皆さんの目に触れる、あるいは著者として関わっていただく、ということがあるかもしれません。

【僕の高校時代】

・内田さんの高校時代の、うらやましいような(?)エピソードを読みながら、自分の高校生時代を思い出したりしました。僕の高校時代は、内田さんから十年近い後ですし、なにしろ筋金入りの優等生だった僕(笑)のことですから、内田さんのような楽しいエピソードはほぼありません。ただ、三回前に書いた(統一教会がらみで)学外のユネスコ研究会というサークルに熱心に通ったのは、ひそかにあこがれていた女性がそこにいたからでした。このあたり、男子高校生のモチーフは、いつの時代もまあ似たようなものでしょう。告白もできませんでしたが、名前はよく覚えていて、娘が生まれた時にその名前にしようかと思ったのですが、カミさんに見透かされそうでやめておきました。

・そんな僕が、高校時代にやや唯一、反抗的思いを形にしたのは、自分の誕生日は学校を休んだことでした。「天皇誕生日」も休みなのだから、まして自分の誕生日は自分だけの祝日だ、というふうな理屈をつけました。僕の誕生日は3月5日で、三年生の時は大学受験で東京に来ていましたが(このことは前に書きました)、一年の時と二年の時はきちんと(?)休みました。ただその時期は確か期末試験の前あたりなので、まわりからは休んで勉強してんだろう、と思われていたかもしれません。やれやれ。

2022/09/05

78、カの話(2022,8,25)

【蚊の話です】

・タイトルを見て、「ちから」の話かと思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、「か」の話です。 今日は、ようやく少し涼しくなり、雨でもなかったので、午前中、庭の草むしりをしました。ちっぽけな庭ですが、雑草は一人前に生えます。 毎年、春になると、「ああ、また草むしりの時期だな」と思うほど、結構時間を取られます。それで、この季節に草むしりをする場合、暑さということもありますが、一番の問題は蚊にさされないようにしたいということです。

・蚊に刺されやすい人とそうでもない人がいて、これは体質なのでしょうが、僕はかなり刺されやすい部類に入ると思います。酒飲みは(血液が酸性なので)刺されやすい、という説を聞いたことがありますが、これは眉唾でしょう。血液型でO型は刺されやすいというデータを見たことがあり、僕はO型なので、そうかもしれないと思いました。(まあ、そんなに信憑性のある話ではないかもしれませんが。)

・当然、万全(?)の備えをします。上はさすがに半袖ですが、下は短パンではなく長ズボンをはき、蚊取り線香は二つ用意します。そして、片方は、丸の形の三分の二くらいに切って、その両側に火をつけます。つまり、普通の二倍の威力があるようにするわけです。その上で、虫よけのスプレーを、足、両腕、首周りにかけます。

・ところが、それでも刺されるのです。刺されたところを見ると、やはりそこはスプレーのかけ方が充分でなかったところなのです。ちょっと感心(?)してしまいます。今の家に越してきた二十数年前、この経験を初めてした時、僕はラフカディオ・ハーンの「耳なし芳一」を思い出してしまいました。耳だけに経文を書くのを忘れ、耳をもぎ取られてしまうわけですが、実は耳のあたりも結構刺されるのです。昔は虫よけスプレーはなかったけれど、虫除けに塗る薬液のようなものはあったでしょうから、この作者は、もしかして耳に塗るのを忘れて蚊に刺された経験者なのではないか、などという、ばかばかしい連想をしたりしました。

【蚊取り線香に蚊帳】

・蚊取り線香も夏の風物詩ですが、懐かしいのは蚊帳ですね。「となりのトトロ」は全編なつかしいものでいっぱいですが、お父さんがさつきとめいに蚊帳をつるしてあげ、その中から二人が夜の庭を眺める(早く芽が出ないかと)ところは、好きな場面の一つです。布団は自分で敷けたとしても、蚊帳は子どもの身長や力では、ほぼつるすことができません。つまり、大人(父親であることが多かったように思います)が蚊帳をつるしてくれる、そういう家族の思い出やその時の匂いみたいなものと重なって、懐かしさがふくらみます。なんというか、毎日テントの中で寝ていたような感じですね。

 夏に、寝る前に親がしてあげること。今ならエアコンのタイマーをセットする……とかでしょうか。ちょっと味気ない、と思うのは、やはり昭和の人間の感傷でしょうか。

2022/08/25

77、お盆とキリシタン(2022,8,15)

【今年のお盆は】

・このところ、東北北部の大雨で、秋田でも県の北部に大きな被害がありましたが、僕の故郷の大仙市辺りは、雨は大丈夫だったようです。ただ、いずれにしても、13日のお盆は、台風の影響もあり、お墓参りどころではなかったと思われます。

 お盆というのは、子ども時代を思い出すと、なんとなく心騒ぐ日だったような気がします。まず正月同様、家族がそろいます。僕の家は、年の離れた兄たちが進学や就職で家を出ていて、お盆は(必ずでもなかったかもしれませんが)帰ってきます。つまり、久しぶりに、兄たちと会える時であったわけです。

 それと、子ども心に印象的だったのは、夜、たくさんの人が道を歩いているということで、田舎ではそういう状態はお盆と秋のお祭りくらいなのです。僕の家は父親が次男で「分家」でしたから、自分の家の墓というものはなく、「本家」つまり父の生家のお墓にお参りに行きます。お寺は学校の少し手前ですから、いつも歩く道なわけですが、夕暮れの時間、そして両親や兄・姉たちが一緒ということ自体、かなり非日常的な感じでしたし、お寺に向かう人たち、帰ってくる人たちで道はいっぱい(という印象)で、今思えばちょっとファンタジックな世界だったように感じられます。

・父の生家はそれなりの規模の地主で、ですからお墓もかなりのスペースを占めていました。ただ、不思議にお墓参りで本家の人たちと会った覚えがありません。父は、戦前家を飛び出したような格好で海軍を志願し、その他の事情もあって、生家とは折り合いがよくありませんでした。今にして思えば、わざと時間をずらしていたのかもしれません。ですから、僕にとっても父方の「先祖」というのは、なんとなくなじみがうすい感じで、行き返りの“にぎわい”の方が記憶に残っているのだと思います。

【〝キリシタン〟のことですが……】

・さて、父は僕が19歳の時に亡くなりました。墓は、本家の墓とは違うお寺で、歩いて10分足らずのところです。父の葬儀は、僕にとっては多分初めてのお葬式でした。中学生の時に父方の祖父が亡くなっているので、普通なら(近くに住む孫ですから)葬式に出るでしょうが、上記のような背景があり、父は「学校を休まなくていい」と言いました。ともかく、父が亡くなるまで、自分の家の墓地がそのお寺にあるということ自体、知らなかったと思います。浄土宗のお寺で、歴史はあるのですが、しばらく無住だったので大分荒れていて、ちょうど父が亡くなる少し前に住職が入った時でした。

・葬儀自体のことは、あまり覚えていません。さすがにショックを受けていたのだと思います。父が亡くなったのが4月で、その新盆の前あたりだったでしょうか。母と僕でお墓の掃除に行った時のことかもしれません。お寺の門に入ってすぐのあたりに、かなり昔のものと思われる墓石の残がいのようなものが、まとめられています。それを見た母が「この墓は、キリシタンのものかもしれない」と言ったのです。

・母も近隣の村から嫁いできた人ですから、話ははっきりしないのですが、その寺にキリシタンの墓があるという言い伝えは、それなりに流布している話のようでした。その時僕は大学の2年になっていたわけで、少し調べてみましたが、江戸時代初期に秋田の佐竹藩にキリシタンがいて、処刑されたという記録は確かにあります。東北では、伊達藩(これは割と有名ですね)と佐竹藩にキリシタンが多く、伊達や佐竹は大藩で徳川に対してもそれなりに対抗心があり、キリシタン禁令にしばらくの間は抵抗したらしいですが、さすがにそれも無理となり、処刑されたのは主に武家ですが、町人や農民の信者もいたようです。

・僕はキリシタンというのは、九州か京都あたりの話だとばかり思っていたので、母から「キリシタン」という言葉を聞いた時は相当びっくりしました。処刑されたということは、つまり教えに殉じたわけで、今から何百年も前に、この地でそんなことがあったということは、本当に驚きでした。当時学生運動の渦中にあって、「思想に殉じる」というようなことが、やや自分自身の問題と重なったこともあったかもしれません。処刑された中には、子どもも含まれていたようでした。

・そんなこともあり、その後キリシタン関係の本は結構読みました。そして、そのことを作品に書きたいと思ったこともありました。そう思ったのは、離婚して息子と二人で暮らしてからで、離婚の是非はともかく、子どもは自分の意思とは関わりなく、親のせいでそうした生活を余儀なくされるわけです。構想としては、離婚して片方の親と別れて暮らすようになった(現代の)子どもと、親がキリシタンのために不自由な生活を余儀なくされた(昔の)子どもを、タイムファンタジーの形で重ねようと考えました。

 ただ、信仰の問題、特にその時代のキリスト教信仰の問題というのは、僕にはあまりに難しく、結局1行も書けませんでした。先般の安倍首相襲撃事件の背景が親の「宗教」がらみということもあり、このことがまた思い出された、という次第でした。

2022/08/15

76、ヒロシマ、そして統一教会のこと(2022,8,7)

【77年目のヒロシマでした】

・2回続きで、2日遅れになってしまいました。前回、「2日遅れているので、もしやコロナ感染?」というメールをいただいて、恐縮しました。今回もそういうことではなく、なんだかバタバタしているうちに7日になってしまいました。

 昨日は8月6日。77回目の原爆の日でした。今日の毎日新聞に、この日をなんと呼ぶかについてのコラムが載っていて、戦後しばらくの間は「原爆記念日」が主流だったけれど、今は「原爆の日」と呼ぶことが多い、ということでした。確かに「原爆記念日」は抵抗がありますね。

・11月に出す那須正幹さんの追悼本『那須正幹の大研究』(ポプラ社刊)の編集が目下急ピッチで進められています。編集委員の一人である宮川健郎さんが担当する、第一章の「那須正幹のことば」(那須さんのエッセイなどで、その生涯を振り返る)の原稿が次々にメールで入ってきて、「ああ、これからは、8月6日は那須さんを思い出す日になるなあ」とも思いました。

 そういえば、僕はまだ見てないのですが、昨日の朝日新聞で、文芸評論家の斎藤美奈子さんが、那須さんの「ズッコケ三人組」と「ヒロシマ」三部作を紹介していたようですね。

・8月に向けて、児童書の世界でも何冊かヒロシマに関わる本が出ましたが、僕が注目したのは2冊。指田和さんの『「ヒロシマ消えたかぞく」のあしあと』(ポプラ社)と中澤晶子さんの『ひろしまの満月』(小峰書店)です。「あしあと」の方は、3年前に指田さんが出され、課題図書にもなった『ヒロシマ消えた家族』という写真絵本についての本、という、児童書ではちょっと珍しいタイプのノンフィクション。これは、両親と4人のお子さんの6人家族のアルバムから選んだ写真によって、この家族の日々を構成したものですが、その6人共原爆で亡くなったのです。女の子がねこをおんぶして笑っている表紙をご記憶の方もいるかもしれません。この絵本がどうして作られたのか、どんな反響を呼んだのか、といった舞台裏の話から、この絵本が出たことによって明らかになってきたことなど、まさに「本についての本」として、とても興味深いものがありました。ノンフィクションを書きたいと思っている人にとっては、ひとつの教材にもなるのではないでしょうか。

・『ひろしまの満月』のほうは物語で、作者の中澤さんはずっとヒロシマを追いかけてきた書き手です。庭の池に棲む一匹のかめが語り手で、ここに越してきた女の子につらい思い出を語るのですが、この作品の味わいは、あらすじでは伝わりにくいように思います。ただ、「かめ」そして「月」という〈時間〉を象徴する存在が、あの時からの時間の流れと、これからの時間の行方をも感じさせ、戦争が時間を断絶させるものであることが無理なく伝わってくるようでした。

【統一教会のこと】

・さて、統一教会と政治家のつながりが連日報道され、政治家の無責任なコメントにはあきれるばかりですが、統一教会の活動が盛んになったのは、1960年代の後半あたりからで、僕の高校生、大学生時代と重なります。当時、学生運動が盛んになり、それに対抗させるために組織されたとも言われています。桜田淳子は秋田出身ですが、秋田でも(当時は「統一原理」と言っていたように記憶します)かなり活発な“布教”活動が行われていて、僕も何度も誘われたことがあります。

・僕は高校時代、ユネスコ研究会という学外サークルに入っていて、その会場は県立図書館の一室でした。秋田駅からほど近く、かつての城跡が大きな公園になっていて、その入り口辺りに県立図書館と県民会館がありました。研究会の前後、会館の前のベンチとかで本を読んだりしていると、大学生くらいの男女が近寄ってきます。毎度のことなので、「あっ、統一原理だな」と思うわけですが、僕はどんなくだらない議論でも引き受ける体質なので(笑)、門前払いはしません。

 大体、「いついつに集まりがあるので、来てみませんか」といったお誘いなのですが、僕が言ったことに反論というか、説得を試みる輩もいます。今でも覚えているのは、「神はいるか」論争で、その彼(だったと思いますが)が、世の中のものはすべて生み出したものがいるはずで、その大本をたどれば一つの存在に行き着く」というので、僕は「だとしても、それをなぜ神と呼ぶのか、大根と呼んでもいいのではないか」というと、彼はさすがに憮然として去っていきました。我ながら50年以上も前のそんなことを覚えているのは、「勝った」と思ったからでしょうか(笑)。

・ただ、学生時代、僕の周囲でもその統一原理の集まりに行ったり、合宿のようなことに参加したりということは、そんなに珍しいことでもありませんでした。当時は「カルト」という言葉はなかったように思いますが、今はどんなふうに“布教”しているのでしょうか。僕にしても、当時なにか身辺にひどくつらいことがあったりしたら、果たしてどうだったか……。「大根」にすがったかも知れません。いずれにしても、人の弱みに付けこむような、こういう集団を許してはなりません。

2022/08/07

75、コロナ、国葬、ドボルザーク(2022,7,27)

【コロナ、急拡大!】

・2日遅れとなりました。この間、17日の日曜日ですが、地元の市の集団接種で、4回目のワクチンを打ちました。僕は1回目、2回目は、東京の自衛隊の集団接種、3回目は今回と同じ市の健康センターでの集団接種で、いずれもモデルナ。これまでも副反応もさほどではなく、今回も(ワクチンを打ってすぐ薬を飲みましたが)翌日37,0度という微熱が出た程度で、ノープログレムでした。

 ひとつ、副反応ならぬ副効果?があって、僕の住んでいるところは市の端っこなので、健康センターに行くには、(車を使えば直接簡単に行けるわけですが)バスで最寄りの駅に出て、電車で3駅乗り、そこからまたバスに乗って、という具合になります。ただ、そのバスがあまり本数がないので、帰りに時間調整のために駅の近くで暇つぶしをしなくてはならないことになりました。坂戸駅という東武東上線の特急なども止まる駅ですが、北口と南口に一つずつあった喫茶店が、ここ二年ほどでなくなってしまったのです。それで、スマホで「坂戸駅 喫茶店」で検索したら、いくつか出てきましたが、そんなにすぐ近くという感じではありません。これからもあることなので、ちょっと歩いてみるかと、一番良さそうなところに行ってみたら、予想よりずっと近いし、僕ぐらいの年配のマスターがひとりでやっている、いかにも喫茶店という雰囲気の店で、これはいい所を見つけた、と思いました。

・それにしても、ここにきて、こんなふうにまた感染が急拡大するとは、思いませんでしたね。実は22日の金曜日、千葉にいる上の娘が帰ってくる予定でしたが、二日前になって38度の熱が出たということで、帰れなくなり、その後陽性と判明。心配しましたが、熱が出たのは一日だけで、その後はほとんど体調も戻り、保育園の勤務は一週間休まなければならないけれど、むしろ退屈で困っている、というようなことで、まずは安心しました。これまで、コロナのニュースを聞いても、どこか他人事という感じがなくもありませんでしたが、ついに我が家にもきたか、という感じで、きいてみると、やはり「うちの娘が」とか「息子が」という話は珍しくないようです。なかなかこれを抑えこむことは難しいと思いますが、発熱外来が列を作っていたり、検査キッドが品不足というようなことを聞くと、相も変わらず対処が場当たり的と思わざるを得ません。

【安倍さんが、国葬?】

・これも、驚きましたね。亡くなったこと自体はお気の毒と思いますし、警護体制のお粗末さは指摘されなければならないと思いますが、正直、彼の死自体を悼むという感情は僕の中にはありません。むしろ、桜の問題にせよ、モリ・カケの問題にせよ、今回浮き彫りになった統一教会の問題にせよ、亡くなったからといって不問に付すわけには絶対いかないだろう、きちんと検証しなければいけない問題だらけだと思います。また、なにより集団安保にかじを切って、日本が、子どもたちが、戦争に巻き込まれる可能性を大きく広げた責任、教育基本法の改悪や道徳教科化によって、子どもたちが主権者として成長する道筋をゆがめた責任は、これからも追及し続けていかなければならないと思います。

・「国葬」ということですぐ思い出したのは、一人はアンデルセン。彼は一度も自分の家というものを持ったことがなく、言わば死ぬまで居候暮らしだったようですが、デンマーク王国は、彼を国葬で称えました。もう一人は作曲家のシベリウス。彼が作曲した「フィンランディア」はフィンランドの第二の国歌とも言われていますが、彼も国葬で送られています。その二人の場合、「国葬」ということを、誰がどうやって決めたのか。今まで気にしたこともありませんでしたが、いずれにしても、ほとんど反対する人はいなかったでしょう。 吉田茂が国葬だったというのも今回初めて知りましたが、いずれにしても今回のことが「前例」になってしまうわけでしょう。政治家だけが対象になるのでしょうかね? 政治家が良くも悪くも国民の尊敬を得ているとは言い難いこの国で、こういう形で国葬なるものが強行されることで、「大事なことは結局オカミが決めるのだ」「国民は肝心な時に意思決定に参加できないのだ」という感じが強まっていくことが、なにより懸念されるように思います。

【そして、ドボルザークです】

・これは国葬とは関係ありません。前にも書きましたが、僕は現代児童文学史をモノにすべく、『ドボルザークの髭』という個人誌を出していて、この度その9号を発行しました。これでようやく1960年代が終わったという具合で、まだまだ先は長いのですが、8号を出してから4か月後に出せたので、なんとかこのペースを守りたいと思っています。今回取り上げたのは、「曲がり角の時代」と名付けましたが、1960年代から70年代に移っていく時期の作品で、僕が学生時代に児童文学と出会った時代―つまり、ここからはようやく僕が体験的に書くことのできる時代になりました。「現代児童文学史」ということに関心があり、読んでみたいという方がいらっしゃいましたら、ご連絡いただければと思います。

2022/07/27

74、那須さんを偲ぶ会が終わりました(2022,7,16)

【一昨日、偲ぶ会でした】

・ネットのニュースなどでもかなり流れたので、ご覧になった方もいらっしゃると思いますが、一昨日、7月14日、那須正幹さんを偲ぶ会が東京會舘で行われました。本来なら、昨日が15日でしたから、すぐにも報告をアップするべきところでしたが、さすがに疲れて、昨日は一日ぐったりしていました。おまけに、夜の会食(偲ぶ会自体は、コロナのことがあり、飲み食いなしでしたが、夕刻、那須さんのご家族を囲んで、発起人とポプラ社のスタッフとで、懇親会でした)の後、帰宅して寝る前に鏡を見たら、ぐらついていた歯のところが腫れていて、翌朝になってもっとひどくなり、午後に急きょ歯医者に行ったら、結局抜く羽目になりました。余計にぐったりでしたが、これが一昨日でなくて良かったなと思った次第でした。

・さて、偲ぶ会ですが、東京會舘のかなり広い会場に(300人位は楽に座れそう)、間隔をあけて椅子を並べ、120人ほどの参会を得て、午後1時から始まりました。僕は発起人を代表して「開会あいさつ」というお役目でした。僕は結構“緊張しい”なのですが、まずまず頭の中にあったことを、言えたような気がします。

 その後、やはり発起人の中から、同人誌『亜空間』で一緒だった肥田美代子さん、『絵で読む広島の原爆』などの絵本を共に作った画家の西村繁男さん、そして俳優の原田大二郎さんのスピーチでした。原田さんは「ズッコケ三人組」の映画に出演したことがきっかけで那須さんと知りあい、同郷で魚釣りが趣味といった共通点もあり、「50を過ぎて、こんなに親友づきあいできる人が現れるとは思わなかった」というほどの親交を結ばれました。二人が一緒の時の場面など、さすがに臨場感たっぷりでした。

・その後、司会の村上信夫さん(元NHKアナウンサーで、村上さんが山口放送局にいらした時に、やはり親交を結ばれました)が持っておられた那須さんのインタビューの録音の一部を会場に流し、その後、那須さんの「読者代表」、一緒に仕事をした画家さんや編集者からの思い出が語られました。

・那須さんには四人のお子さんがいらっしゃるのですが、今回の偲ぶ会には、美佐子夫人はもちろん、ご長男、ご長女(とお連れ合い)、ご次男の三人が参加され(次女の方はご都合で残念ながらご欠席でした)、ご長男は四人のお子さん(つまり、那須さんのお孫さん)も連れてのご参加でした。一番下のお嬢さんが昨年の6月生まれということで、まだ一歳なわけですが、7月に亡くなった那須さんはコロナのために会うことができないままだった、ということでした。そのご家族がズラッと並ばれて、美佐子夫人からのご紹介があり、ご挨拶がありました。最後にポプラ社の千葉社長から閉会のご挨拶があり、献花に移りました。

・「那須家」としてのご葬儀やお別れ会ではないので、出口の所に、ご家族とともに、僕や千葉社長も並んでご参会の方たちにご挨拶しましたが、ほとんどの参加者が、美佐子夫人にこもごも那須さんとの思い出を語り、僕は隣に立っていましたが、美佐子夫人は(初めて会う方も多いわけですが)ちゃんと一人ひとりの関係性を把握している感じで、その点もさすがだなあと、那須夫妻のありようを思ったことでした。

【マスコミ関係の方たちも】

・偲ぶ会でちょっと驚いたことの一つは、マスコミ関係の取材が多かったことで、新聞社、テレビ局など、13社がきてくれました。さすがは那須さんだと感じました。帰りにスマホで検索したら、僕の開会あいさつや、NHKのニュースでは、原田さんと共に僕の写真も載っていて、こんな時に「うれしい」という表現は適切でないかもしれませんが、昨年の秋ごろから、かなりの時間をかけて準備してきたことだけに、本当にいい会になってよかったなと思えましたし、つまりはそれは那須さんの人徳、ということに尽きるのでしょう。

 これまで僕は、協会関係の方の、ご葬儀、お別れ会、偲ぶ会などに、かなり関わってきましたが、(比べるわけではありませんが)忘れられない会になったと思っています。

2022/07/16

73、夏は好きですか?~泳げない夏~(2022,7,5)

【猛暑お見舞い】

・前回は「合併号」にさせていただきましたが、書いたのが随分前のような気がします。20日だから、そんなでもないのに、ひょっとして「猛暑」の始まる前だったのかな。改めて調べてみたら、観測史上一番早いと言われた梅雨明けが27日だったんですね。そして、一昨日までのすごい暑さ……。僕の住んでいる坂戸市は、埼玉県の真ん中辺、この頃猛暑ポイントとしてニュースに出てくる鳩山町は隣ですから、東京都心よりも2、3度高いのです。

 二歳の孫が来ていて、去年買ったゴムプールを作りました。娘たちが小さい時は市のプールにもよく行きましたが、今年は公営プールはオープンするのかな? 去年、一昨年はコロナで学校も含めてプールは使えなかったでしょうから、子どもたちもかわいそうでしたね。

 さて、そのゴムプールを膨らませながら、子ども時代のことを思いだしたりしました。よく「好きな季節は?」という質問がありますが、今はこの猛暑で夏が好きという人は少ないでしょうが、かつては子どもなら「夏が好き」と答える子が多かったのではないでしょうか。僕は夏は嫌いでした。

・理由は、泳げなかったから。1950年代の秋田の農村でしたから、プールなどというものはなく、泳ぐのは川。僕はもともとアウトドアな子どもではなかったし、小さい頃ならともかく、中学年くらいになると、泳げなければ、カッコ悪くて川にはいけません。だから、夏休みでも大体家の中にいて、日に焼けません。夏休み明けに、なまっちろい顔で学校に行くのは、はずかしいというか、いささかゆううつでした。

【先生になった時】

・それでも、まあ子ども時代は、それで済んだわけですが、問題は、大学を卒業して、小学校の教員になった時でした。秋田県の採用試験の時だったと思いますが、「何メートル泳げるか」を書く欄があって、「25メートル(だったか)」と、控えめな嘘を書きましたが、これはどうせ落ちるだろうと思っていたので、ノープログラム。問題は、東京の私立小学校に就職が決まった時でした。

 なにしろ50年前の話で、この私立小学校にはプールがなかったのです。助かった!と思いました。ところが、やはり小学校でのプール指導は必須科目。それで、この学校では、4年生以上は夏休みに長野県蓼科のプール付きのホテルに4泊くらいだったか宿泊して、ここでみっちりプール指導をするというのです。

 あわてました。採用の時は「泳げますか?」と聞かれもしませんでした。あまりに当然のことだからでしょう。夏休みまで三ヵ月余り、そこまでなんとか泳げるようにしなければなりません。当時は今と違って、スイミングクラブのような施設はあまりない時代です。そしたら、たまたま新聞で、大人向けの水泳教室というのを見つけたのです。場所は千駄ヶ谷の神宮プールで(今もあるのでしょうか)、一週間に1回だったか二週間に1回だったか、全体で5、6回くらいの教室だったと思います。当時流行りつつあった「ドル平泳法」というスタイルの教室で、行ってみたら、20人位だったか、もう少し多かったか。

・ドル平泳法というのは、足はドルフィンキック、手は平泳ぎの形で、これが一番体に抵抗がないという「理論」に基づいた指導方法でした。それで、泳げない人というのは水の中で目が開けられないというのが共通するパターンで、まずは水の中で目が開けられるようにしよう、ということなのですが、これがなかなかできません。当時はアパートに一人暮しでしたが、家に帰ってからも、洗面器に顔をつけたり、必死の?努力でした。

・結果的にはちゃんと「泳げる」までにはいかなかったものの、なんとか浮くようにはなり、バタ足で少し進む程度にはなりました。ですから、夏休みの水泳指導の時には、「水泳はあまり得意ではないんです」とか言いながら、なんとかごまかせました。その後、子どもも生まれ、一緒にプールに行ったりしているうちに、平泳ぎなら25メートルくらいは泳げるようになりましたが、クロールの息継ぎはいまだにできません。それでも、神宮プールでの特訓のおかげで、子どもをプールに連れて行くのは嫌ではなくなりましたし、子ども時代に比べると、夏は(猛暑はともかく)そんなに嫌いでもなくなったかもしれません。

2022/07/05