藤田のぼるの理事長ブログ

93、協会文学賞のこと(2023,1,25)

【昨日は】

・昨日は、午後から雨、夜には雪という予報だったのに、午後の3時ころまでは結構いい天気で、しかも暖かかったので、「本当に雪?」と思っていたら、4時過ぎくらいだったでしょうか、まずものすごい風が吹いて、“嵐”という感じでした。庭に出て、風で持っていかれそうなものを片づけていたら、なんと雪が舞ってきました。こんなにあっという間に天候が変わるのは、少なくとも今の家に移ってからは(もう二十五年以上になりますが)初めてという気がしました。「一天俄かにかき曇り」という表現がありますが、まさにそんな感じでした。

 僕は日曜日に事務局に出て、午後からは研究部の「子どもの権利」のブックトークのリモート研究会に参加しましたが、その前後は今年の文学賞選考のためのリスト作りの作業をしました。その作業を火曜日か水曜日に出て続けようかと思っていましたが、天気予報を見てやめました。天気とは無関係かもしれませんが、昨日は僕が使う東武東上線が午前と午後の二回人身事故があり(これもめったにないことです)電車がろくに動いていなかったので、まあ行かなくて良かったと思いますが、なんというか心騒ぐ一日でした。

【さて、協会の文学賞のことです】

・協会の文学賞には(長編児童文学新人賞のようなコンクール的な賞は別として)、日本児童文学者協会賞、日本児童文学者協会新人賞、そして三越左千夫少年誌賞があります。少年詩・童謡のみを対象とする三越賞は別として、協会の文学賞は、選考に関して大変なことが二つあります。 というのは、他のたいていの文学賞は、候補作品を選ぶにあたって「推薦方式」をとっています。出版社や関係者に「賞にふさわしい作品を推薦してください」と依頼するわけです。ですから、その時期になると、僕の所にも野間賞や坪田賞といった賞の主催者から、返信ハガキ入りで推薦依頼が届きます。無論、推薦作にはかなりバラツキがありますから、大体の場合予選委員という人たちがいて、その推薦作を絞り込み、候補作品を概ね一桁の数にして、それを選考委員が読み、受賞作品を決定するというパターンです。

 まあ、これでたいていの場合支障はないわけですが、やはり推薦からもれていて、実はいい作品があったのでは、という危惧は残ります。特に、後で述べるように、協会の文学賞は詩集や評論・研究書も 対象としますから、こうしたジャンルのものは推薦にはなかなか入ってきません。

・そこで協会では、こうした推薦方式はとらずに、原則として前年のすべての創作児童文学を対象にしています。「それは理想的だが、本当にそんなことができるのか」と言われそうですが、それを可能にするために、いろいろな工夫をしてきました。そもそも「すべての創作児童文学」というのが何冊くらいになるのかということですが、絵本を別にすれば大体400冊弱というところです。年間の児童書全体では3千冊以上なので、その中の創作児童文学の割合は1割強というところでしょうか。それにしても、すべての選考委員がそれを全部読むなどというのは、事実上不可能なことです。

 そこで以前は、協会賞、新人賞の選考委員が分担してそれを読み、候補作品を絞っていました。ただ、それでも選考委員の負担は大きく、また人によって評価の基準にバラツキがあって、スムースにいかない面がありました。それで、10年ほど前に、「文学賞委員会」というのを作って、ここでリストの中から協会賞、新人賞で検討すべき作品をそれぞれ30作品くらい選び出す、という形にしました。ですから、両賞の選考委員は、その二次リストから候補作品を絞っていく形になったわけです。ただ、僕ら評論に携わっている人間は、否応なくかなりの作品を読んでいますが、作家の場合は、普段そんなに他の人の作品を読んでいるわけではなく、これでもかなり(他の賞に比べれば)負担感は大きく、また選考料も圧倒的に?安いという問題があります。

・もう一つ、協会の文学賞で大変なのは、先に書いたように、創作作品だけでなく、詩集や評論・研究書も対象にしていることです。僕の知る限り、そんな文学賞は児文協の賞ぐらいではないでしょうか。その分、選考委員の負担も大きいわけです。

 以上が、協会の文学賞の「大変さ」の言わば“おおもと”ですが、他にも文庫書下ろし作品の扱いとか、さまざまな問題を抱えていて、いずれその在り方をかなり根本から見直さざるをえないと思いますが、それはまた別の機会にします。

【で、そのリスト作りですが……】

・ということで、選考の前提として、昨年出版された創作児童文学作品のリストを作らなければいけません。方法としては、児童図書出版協会が発行している『子どもの本』というPR誌に、ほぼ一月遅れで出版された児童書のリストが掲載されるので、そこから創作単行本を選んでリストにしています。ただ、児童図書出版協会に加盟していない出版社については、それぞれ独自に調べなければならないので、これはこれで大変です。

 で、その作業をいまだに僕がやっているわけです。本来なら、事務局員に引き継ぎたいところですが、事務局は僕が事務局長時代の三人体制から二人体制、さらに以前は機関誌の編集は嘱託の形で専門のスタッフがいたわけですが、それも大分前から事務局長の次良丸さんが引き受けています。とても、新しい仕事を増やせる状況ではありません。

 ということで、こんな風に書くと愚痴のようになりますが(それも多少ありますが)、このリスト作りをしていると、毎年の創作児童文学の出版傾向が自ずから見えてくるという“副産物”もあり、評論をやっている身としては、ありがたい作業ともいえます。

 ともかく、なんとか9割方はできたので、今週もう一度事務局に出て、このリストを完成させなければ、というところです。賞の発表は4月の終わりですが、1月からそんなふうに選考の準備が始まっていることをお伝えしたかった次第でした。

2023/01/25

92、今年の抱負です(2023,1,15)

【遅まきながら】

・この年になると(僕は1950年生まれなので、年齢は計算しやすいです)、「今年の抱負」といっても、そんなに飛び切りなことがあるわけではなく、むしろし残していることをいかに片づけるか、みたいなことになるのですが、自分の整理のためにも、半月遅れですが、書いておきたいと思います。

 第一は、なんといっても個人誌『ドボルザークの髭』の発行速度を上げること。この個人誌は、まあ僕のライフワークともいえる「現代児童文学論」を書くために発刊したものですが、2015年11月に創刊しましたから、もう七年以上経っていますが、大変恥ずかしながら、まだ9号でようやく1960年代が終わり、今70年代を書き始めている、という状態です。言い訳はいろいろありますが、言い訳するヒマがあったら書け、という具合で、10号は9割方できています。僕は1970年前後に本格的に児童文学を読み始めましたから、ようやく僕のリアルタイムの経験で書ける時代になったので以前に書いたものも援用できることになり、ともかくペースを速める、具体的には今年中に3号は出して、来年くらいには70年代を終わらせ、そこで一区切りにできればと念じています。

 後は順不同という感じですが、はっきりした宿題としては新美南吉著作権管理委員会の資料をまとめて、新美南吉記念館の来年の紀要に載せられるようにしなければなりません。協会が新美南吉著作権管理委員会の窓口になっていたことは以前に書いたと思いますが、そのため南吉作品がどこでどのように使われたのかが(絵本などはもちろんですが、「ごん狐」や「手袋を買いに」などは、人形劇とかアニメとか、いわゆる二次的使用がものすごく多いのです)、すべてファイルになっています。そのファイルはいずれ新美南吉記念館に寄贈するつもりですが、それにあたって、実際に著作権管理に当たった者の責任として、南吉作品の使用の実態について、大雑把にでもまとめて文章にしたいわけです。「ごんぎつね」がすべての国語教科書に載っていることもあり、ある意味、新美南吉は、戦後もっとも読まれた童話作家かもしれません。これはすでに南吉記念館の遠山館長に約束したことなので、明確に「宿題」です。 著作権管理ということで言えば、昨年から、協会に著作権を遺贈してくださった那須正幹さんの著作権管理についてもいくつか宿題というか、今年中にしておきたいこと、しなければならないことがありますが、この具体的な中身については、改めて書きます。

【抱負というか、野心というか】

・もう一つ、僕が今年中に何とかしたいなと思っているのは、僕がそもそも児童文学に関わるきっかけを作ってくれた斎藤隆介に関する仕事です。去年、黒姫童話館で「八郎」の1950年のオリジナル原稿を見たことはすでに書きましたが、『八郎』や『モチモチの木』など、絵本化されて多くの人に親しまれてきたものの、僕からすると、まだ絵本になっていないものでこれを絵本にしたらいいだろうなと思う作品が、いくつかあります。なんとかその可能性を探りたい。そして二年後2025年は没後40年になるので、どこかで斎藤隆介展をやってくれないかな、というのが、まあ僕の“野心”です。今年は6月に秋田市で、11月に八郎潟町で講演が予定されており、秋田の方たちとも共に、その可能性を探れればと願っています。

 最後に、これはまあ“夢”のレベルですが、去年の12月5日付で、詩人の小泉周二さんを囲む会に行きますという話を書きましたが、とても楽しい会でした。そこで僕はビールの勢いも手伝って、「小泉さんの詩に曲をつけたい」と宣言(?)したのでした。小泉さんはご自分で自作の詩にいくつも曲をつけて、CDも出しておられます。僕はどれも大好きで、できたら、まだ曲がついてない詩に曲をつけてみたいなと、これはまさしく野心ですね(笑)。野心のまま終わるかもしれませんが、ここに書いて、自分へのプレッシャーにしておきたいと思います。  

 最後、いかにもなことではありますが、多分(将来も含め)日本の歴史の中で同じ年代の人間がもっとも多い世代の一人として、絶対に「戦前」にはしないよう、子どもや孫世代が武器を持たせられるようなことにならないよう、今まで以上に声を大きくしなければと、やはり書かずにはいられません。

2023/01/15

91、遅ればせながら、新年のご挨拶です(2023,1,10)

【5日遅れになりましたが】

・年が改まり、最初から5日遅れとなってしまいました。今日、今年初めて協会事務局に来ています。例年だと、5日あたりに年賀状のチェックも兼ねて出てくるのですが、今年は4日に池袋で私的な“新年会”があり、6日に協会のホームページ更新に関しての(在宅での)リモート会議があり、ということもあって、僕宛の年賀状は、自宅に転送してもらいました。そのせいもあって、なんだかすっかり「5の日のブログ更新」が頭から抜けていました。

 まあ、それだけ、のんびりとした正月を過ごさせてもらったということでしょう。子どもたちや孫に囲まれて、大分おいしいお酒もいただきました。元日の初詣で例年のようにおみくじを引きましたが、「吉」で、学問の項は「努力すればよろし」。そりゃまあ、そうでしょうと突っ込みたくなりますが、仕事が進まないのにあれこれ理由をつけたがる我が身への苦言かもしれないと、ちょっと反省しました。

 もう一つ注目したのは「失物」の項で、こちらは「出る 物の間にあり」でした。実は、家の引き出しに僕の保険証と病院の診察券を入れておくケースがあったのですが、孫がいじるので、カミさんがどこかにしまったのですが、その「どこか」がわからなくなった、というよくあるパターン。あちこち心当たりを探しましたが、一向に出てきません。診察券はともかく、保険証がないといざという時困るので、文芸美術国民健康保険組合の事務局に連絡して、再発行してもらいました。ひとまず安心ですが、その後「物の間」を注意して見ているのですが、まだ出てきません。

・この「文芸美術国民健康保険」ですが、初耳の方も少なからずだと思います。ご存知のように、健康保険は、会社勤めの方が対象の社会保険と、自営などの人が加入する国民健康保険があるわけですが、 国保も所得によって掛け金が違ってきます。ある程度の収入がある場合は、言わば割を食う形で高い負担を強いられる形になります。そこで、という言い方が経緯として正しいかどうか定かではありませんが、国保は国保なのですが、名前の通り文芸や美術などの分野の職能団体が集まって、独自のグループともいうべき組織を作ったのが、「文芸美術国民健康保険組合」です。現在、67の団体が加盟しており、文芸や美術関係の団体の他にも、日本映画監督協会、日本作編曲家協会、いけばな協会、日本ジュエリーデザイナー協会など、加盟団体のリストを見ていると、日本の芸術関連の分野というのがこんなふうにあるんだ、ということがよくわかります。

 さて、ここに入るメリットですが、医療の負担割合などは通常の国保と同じですが、所得に関わらず保険料は同額で、現在月額21,100円(本人、家族は11,600円)で、人間ドッグなどへの補助も割合手厚いです。国保に加入の方で、今これより多く払っているという方は加入を考えてみてもいいかと思います。ただ、数年前までは、児文協(もちろん加盟団体)の会員であれば無条件にここに加入できたのですが、現在はそれぞれの分野で一定の収入があることや確定申告をしていることなど、要件がやや厳しくなっていますので(でも、文筆で食っていなければダメというほどの厳しさではありません)、詳しくは事務局にお尋ねください。

【年賀状を見ながら】

・僕は例年年賀状は400枚用意するのですが、数年前まではそれでも足りなくて少し買い足す具合でした。二、三年前からその必要がなくなり、今年は3,40枚くらい余る感じでした。その理由の一つは、同世代の人たちがいわゆる「年賀状仕舞い」をする人が増えてきていることで(もう一つの理由は、先輩たちが段々鬼籍に入られている、という残念な現実もありますが)、僕も一時チラッと考えたこともありますが、できれば続けたいと思っています。十数年前までは宛名も手書きしていたので、これは大変でしたが、今はパソコンで印刷できますから、それを考えればまだしばらくは続けられそうです。ただ、全部印刷というのはいかにも味気ないので、自分の名前は手書きにして、なるべく添え書きを一言つけ加えるようにしています。

 名前を手書きにしているのは、それが必要という事情もあって、仕事関係の方たちには「藤田のぼる」と署名するわけですが、秋田時代の友人とか、小学校教師の時の同僚や教え子とかには、本名の「藤田 昇」と書きます。今、その本名で書く場合はほとんどないので、つい「藤田のぼる」と書きそうになるのに気をつけなければいけません。でも、年賀状を書く度に、自分には「藤田昇の時代があったんだな」という感慨も湧いて、それもまた興あり、という感じでしょうか。

 本当なら、「今年の抱負」とかを書きたいところでしたが、それはまた追々に。ともかくも? 本年もよろしくお願い申し上げます。

2023/01/10

90、雪の思い出(2022,12,25)

【大雪のニュースが】

・クリスマス、いかがお過ごしでしょうか。少し前、新潟県で車が立ち往生したりと、大雪のニュースが報じられました。その後も、東北・北海道の日本海側は大雪が続いているようです。僕が生まれ、育ったのは秋田県仙北郡長野町というところで、その後二度の合併を経て、今は大仙市となっています。秋田新幹線とも重なっている田沢湖線の沿線の平野部で、豪雪地帯とまでは言えないものの、一メートル半くらいは普通に積もったでしょうか。大雪のニュースに加え、たまたま少し前に、いぬいとみこの『山んばと空とぶ白い馬』を読んだせいか(いぬいさんの山荘があった黒姫高原が舞台で、雪の描写がすごい)、子どもの頃の雪景色を思い出しました。

・とはいえ、冬に雪が降るのは言わば当たり前でしたから、そんなに思い入れがあるわけではないのです。ところが、というか、東京に出てきて何年目だったか(と思い、検索したら1976年ですから4年目でした)、NHKの朝の連続テレビ小説で「雲のじゅうたん」というのがありました。隣町の角館が舞台で、浅茅陽子演じる日本で最初の女性パイロットになった人がヒロインでした。この帯ドラは4月初めの平日から始まると思うので、その頃は小学校教員で結構朝早く家を出ていましたから普通なら見られないと思うのですが、なぜかたまたま一回目の時、家にいて見たのです。深い雪景色の中を、馬が引くそりが進んでいきます。それを見たとたん、涙が流れてきたのです。そりの御者は、角館出身の俳優山谷初男さんで、その秋田弁のせいもあったかもしれませんが、じわっとという感じではなく、ぼろぼろと涙が出てくるのです。おれはこんなにも故郷を恋しがる人だったか……、自分でも驚きました。その雪景色が引き金だったことは、間違いありません。

【馬そり、箱ぞり……】

・そういえば、僕が子どもの頃はまだ自動車は少なく、冬になるとまだ馬そりが運搬のかなりの部分を受け持っていました。朝学校に行くときに、馬そりが通った後だと、道路の雪がしっかり固められ、そりの跡はてかてかになっています。そこを長靴でつーっとすべって遊びながら学校へ向かいます。馬そりがやってくると、それにつかまって滑ろうとしますが、結構速いので、つかまりきれません。

 そりといえば、どの家にも箱ぞりというのがありました。昔風の乳母車の車輪の代わりにそりがついた形をイメージしていただければいいでしょうか。ベビーカー兼ショッピングカーという用途で、主に女性が使います。小さい子を乗せたり、冬は自転車が使えないので、買い物などの用事にも使います。その家の紋がついた立派なものもありました。

・箱ぞりの思い出と言えば、一度母が僕を箱ぞりに乗せて、実家まで行ったことがありました。おそらく四歳位の時のことで、僕の記憶の中でも一番早いほうの部類です。これは後で母から聞いたのですが、途中で僕が何度も「こわゃー、こわゃー」と言うのだそうです。「こわい」というのは秋田弁で「疲れた」という意味で、僕はただ箱ぞりに乗せられているわけですから、疲れるはずはないが……と母は思ったそうです。実は、酔っていたのですね。雪道はそれなりにでこぼこしていますから、車酔いの状態になったわけです。

 実家は隣の角館のいわゆる在で、そうですね10キロ以上の距離はあったのではないでしょうか。3時間くらいはかかったと思います。僕は酔ったことは覚えていませんが、途中でちょっとこわそうなおじさんから、「坊、どこまで行く?」というような声をかけられたことを不思議に覚えています。

 今思うと、その時、母はなぜ3時間もかけて、僕を連れて実家に行ったのでしょうか。そのことがあったから、というわけでもないでしょうが、子どもの頃、雪の中を角巻き(ショールのような防寒着です)をかぶった女の人が箱ぞりを押して歩いていく姿に、妙に心動かされるものがありました。杉みき子さんの作品に出てきそうな世界ですが、僕の原風景のひとつです。

【『雪咲く村へ』のこと】

・そういえば(というのもいささかわざとらしいですか、書き始めた時はこのことは頭にありませんでした)、僕の最初の創作の本は「雪咲く村へ」というタイトルです。学生時代に書いたこの作品が、那須正幹さんの推薦で本になった顛末はすでに書きましたが、このタイトルはある詩から取っています。ロシアの詩で、「行くはいづくぞ 桃咲く村へ 今日の議題は 春について」というのです。僕はロシアの農民詩人が書いたというこの詩を新聞で見た覚えがあり、「桃咲く村」を「雪咲く村」にしたわけです。それで本になるとき、冒頭にこの詩を載せようと思って探したのですが、結局出典がわかりませんでした。「今日の議題は春について」というのが、いいと思いませんか? もし、「その詩、知ってる」という方がいらしたら、ぜひご一報ください。

 それでは、皆さん、良いお年を。来年の議題が、いい議題になることを願って。

2022/12/25

89、那須さんの「大研究」の本が出ました(2022,12,15)

【チラシをお送りしましたが】

・会員の皆さんには、少し前に届いたであろう会報に、本のチラシを同封させてもらいましたが、『遊びは勉強 友だちは先生~「ズッコケ三人組」の作家・那須正幹大研究~』が、この度ポプラ社から刊行されました。我が家は毎日新聞なので、13日の朝刊の一面の下(書籍広告が並んでいるところ)にその広告が載っていましたが、朝日は今日のはずなので、それでご覧になった方もいらっしゃると思います(読売と日経は、日曜日に掲載されたはずです)。そこにも、またチラシにも名前が載っていますが、僕は宮川健郎さん、津久井惠さんと共に、この本の編集にあたりました。

 タイトルの「大研究」というのは、今回の編者でもある宮川さんが、石井直人さんと編集した3冊にわたる『ズッコケ三人組の大研究』を踏襲したもので、またメインタイトルにした「遊びは勉強 友だちは先生」というのは、那須さんが色紙などに好んで書いたフレーズです。いかにも那須さんらしい言葉だと思います。

・本書の内容ですが、全部で5章から成り、第1章が「那須正幹のことば」として、那須さんの最初の記憶である、1945年8月6日の原爆についての記述から始まり、折々のエピソードをはさんで、「東日本大震災」、そして最後は「なぜ日本は平和なのか」というエッセイ、というふうに、那須さん自身が書かれた文章や、インタビューを引用しながら、那須さんの歩みを構成しています。

 また、第2章では、「那須正幹が書いたこと」として、〈遊ぶ〉〈追いつめる〉〈探しだす〉〈解きあかす〉〈漕ぎだす〉〈祈りつづける〉〈迷いこむ〉〈生きる〉の八つのキーワードから、多彩な那須作品を読み解いています。評論家にまじって、吉橋通夫さん、富安陽子などにも執筆してもらいました。

 以下、「3章「ズッコケ三人組」わたしのイチオシ」「4章 座談会・那須正幹さんとの本づくり」、そして第5章は、「平和の願いをつなぐ場所・つなぐ人」として、「ズッコケ三人組」や原爆を描いた作品の舞台が紹介されます。

・この本のもうひとつの“売り”は、これらの各章をつなぐように、那須さんとご縁のあったさまざまな方たちからの追悼エッセイが寄せられていることで、児童文学関係者だけではなく、辻村深月、リリー・フランキー、俳優の原田大二郎さんなども並んでいます。さらに上記3章の「イチオシ」には、伊坂幸太郎、万城目学、バイオリニストの五嶋龍さんといった人たちも登場していて、この世代の読書体験の中で、「ズッコケ三人組」を始めとする那須作品が、どれだけ大きな位置を占めていたかがわかります。

【それにしても】

・本当は、追悼本など作りたくはないのです。ただ、そのあたりは矛盾していて、やっぱりこういう本が作れたことはうれしいのです。会報にもこのブログにも書きましたが、僕は大学の二年目の4年生の時、大学の同人誌に書いた「雪咲く村へ」という作品を、『日本児童文学』の同人誌評で、デビューしたばかりの若手作家・那須正幹に随分ほめてもらい、その後那須さんの推薦で、僕の初めての創作単行本になったわけですが、それを書いたのは22歳、今からちょぅど50年前になります。甘えたことをいえば、那須さんには「元会長」としてずっと会を見守っていてほしかったと思いますが、今回の本で、改めて那須さんの文学人生を振り返り、そのたゆまぬ、そしてゆるぎのない歩みに、頭が下がる思いでした。

 当初の予定より大分本のボリュウムが増し、価格も2700円(本体)と上がったのですが、会報に書いたように、会員は2割引きということで、ポプラ社にお願いしました。創作を続けている人、目指す人にとって大きな価値のある、「大研究」というタイトルに恥じない一冊になったと自負していますので、どうかお読みになってください。

2022/12/15

88、サッカー、パソコン、アンコウ鍋(2022,12,5)

【師走になりました】

・月並みな表現になりますが、早くも師走。ただ、あっという間にというよりは、今年は結構いろいろあったな(まだ終わっていませんが)、という実感。

 さて、三題噺みたいなタイトルですが、そんな芸のある話ではなくて、バラバラな話題です。前回ちょっと予告した、那須さんの追悼本に関しては(まもなく届く会報に、そのチラシが同封されるはずですが)じっくりゆっくり紹介したいので、次回にさせていただきます。

・さて、まずはサッカー、もちろんワールドカップの話ですが、僕はドイツ戦は前回書いたように小樽のホテルで見たわけですが、コスタリカ戦は、その日夕刻から息子と池袋で会って一杯やる約束になっていて、居酒屋で息子のスマホ画面での観戦でした。そしてスペイン戦は、その日午後から日能研の文芸コンクール(中高生対象)の選考会が控えていたこともあり、さすがに朝の4時に起きるという根性はなく、5時に目覚ましを設定しました。それでも後半はまるまる見られますし、その時点で絶望的なスコアだったら、また寝ればいいと思ったのです。0対1というのは微妙でしたが、まあ無理かなとも思いつつ、ちょっと見てみようと思った矢先、後半開始早々に2点入って、結局まるまる見てしまいました。

・それにしても、こういう時につくづく感じるのは、監督の大変さですね。試合後の森保監督のコメントは、興奮気味ではあったものの、事前に準備されたコメントのように感じました。おそらくいくつかの場合を想定して用意したのでしょうが、その中の一番いいコメントが話せたのが幸いと思いました。

【パソコンを替えました】

・実は、このブログ、新しい(といっても中古ですが)パソコンで書いています。これまで使っていたパソコンが、容量不足で時々更新できなくなり、不安でした。また、そのパソコンにはカメラがついてなくて、リモートの時は小さいパソコンで代用していたのですが、やや不鮮明で、これからリモートの用途はまだまだありそうですから、この機会に取り替えました。

・パソコンというのは、ほかの電気器具と違い、かなりにやっかいな代物ですね。なにかトラブルがあったときに、皆さんはどうしていらっしゃるでしょうか。事務局の場合は、次良丸さんがかなり詳しいので、大体対応してもらえますが、自宅ではそうもいきません。電気店などに持ち込むのも大変です。

 僕の場合は、比較的近いところで、そうした対応をしてくれる専門の業者がいるので、なにかあると彼に連絡します。電話で済むことも結構あります。今回も、彼に頼んで新しいパソコンを購入してもらい、前のデータも移してもらいました。朝に前のパソコンを取りに来てくれて、午後にはデータが全部コピーされた新しいパソコンを届けてもらえたので、本当に助かります。

 そんなこともあり、今日のブログのアップは夕刻になりました。

【そして、アンコウ鍋です】

・明日、茨城県の阿字ヶ浦に行きます。会員で詩人の小泉周二さんの地元で、小泉さんを囲んで冬の味覚を味わうという集まりです。何年も前から開かれていたようですが、僕は大学の非常勤講師をしている間は、平日はなかなか時間が取れず、三年前に初めて参加しました。結構好き嫌いの多い人なので、初めてのアンコウ鍋はちょっと心配でしたが、いやぁ、おいしかった。小泉さんの教え子の家というこじんまりとしたホテルで、夜は小泉さんのギター伴奏の歌を聴いたりと、楽しい時間でした。その翌年に小泉さんの詩集の解説を書かせてもらったりして、本当はそのお祝いの集まりになるはずだったわけですが、コロナで三年ぶりということになりました。美空君もさらに成長していることでしょう。

 小泉さんの詩集は、『たたかいごっこ』というタイトルで、目で息子を見ることのできない小泉さんの“子育て”(そして“父育ち”)が主な題材になっています。ぜひ、僕の解説共々(は余計か?)お読みになってください。

2022/12/05

87、行ってきました(2022,11,25)

【予定通り】

・前回のブログに書いたように、20日に宮城教育大学で開かれた児童文学学会の研究大会(19、20日の二日間ですが、僕は二日目から)に参加するために、仙台に。お昼前に着いて、午後からのシンポジウム「現代児童文学をいかに歴史化するか~資料の保存・活用を考える~」で、パネラーの一人として発言。時間の関係で、かなりに端折りましたが、記念資料集のPRは多少できたかと。

・実は、これについては、次回あたりに改めて書きますが、那須正幹さんの人と文学を振り返る『遊びは勉強 友だちは先生~「ズッコケ三人組」の作家・那須正幹大研究』が、ようやくできて、出かける前日の19日に見本が届き、仙台まで持っていって、一緒に編集を担当した宮川健郎さんに(彼は19日から仙台なので、まだ見本を手にしておらず)見せて共に喜ぶ、という一幕もありました。(あと津久井惠さん、そしてポプラ社編集部の編という形です。)

・午後は、「東アジアの小校学国語教科書における児童文学を考える」というラウンドテーブルに出席しましたが、そこで韓国、中国、台湾の小学校国語教科書を見せてもらったのですが、かなりびっくりしたのは、韓国の教科書で、日本風にいえばほとんど副読本のようなスタイルの「作品集」で、低学年の場合は、結構新しい絵本の合本のような感じです。そして、改定の度に、作品がほぼ入れ替わるのだそうです。ですから、「おおきなかぶ」「ごんぎつね」のような定番教材といったものは、ほとんどないわけです。むしろ、中国の教科書が、なんというか、作り方の思想において日本とほぼ同じだな、ということも印象的でした。

・そんなことで、学会が終わり、僕は仙台駅に戻りました。話があちこちですが、なにしろ今回は4泊5日だったので、いつもの手提げのボストンバックではさすがに間に合わず、娘から借りたそれなりの大きさのスーツケースを引きずっての旅行となりました。そのため、スーツケースは仙台駅のロッカーに預けたので、それを回収し、地下鉄に乗って、姉の家に向かいました。三人いる姉のうち、すぐ上の姉で、兄弟の集まりなどで会ってはいますが、家に泊まったのは久しぶりで、東日本大震災の時のことなど、改めて聞いたり、でした。

【北海道へ】

・翌日、仙台駅から北海道新幹線に乗り、函館に。2時間半ほどで、さすがに速い。市電に乗り、予約していた五稜郭近くのホテルに行きましたが、もちろん旅行支援の4割引きで予約したわけですが、クーポン券3千円分を受け取ろうとしたら、うかつにもワクチンの接種証明を持ってこなかったことに気づきました。あわてて家に電話して、接種証明の写真をラインで送ってもらい、事なきを得ました。皆さんも、旅行支援でお出かけになる際は、お忘れなく。その日は近くの居酒屋で一杯やりましたが、4千円ちょっとのお勘定がクーポンのおかげで千円ちょっとになりました。

・そして、翌日、函館を発って、小樽に。まずは札幌まで、在来線の特急で4時間近くかかります。つまり、仙台から函館よりも、ずっと時間がかかるわけです。経路的にやや遠回りという問題もありますが、北海道の広さを実感です。そして札幌で乗り換えて小樽まで30分余り。翌日が、絵本・児童文学研究センターのセミナーだったわけですが、この日の夜は前日の懇親会で、三年ぶりにあった方たちも多くいました。そして、翌日がセミナーで、同センターの工藤理事長、茂木健一郎さん、斎藤惇夫さん、養老孟司さんという面々の自在な講演、シンポジウムでした。そして、その日の夜は講師やスタッフの夕食会が終わった後、部屋でサッカー観戦という次第でした。

【函館の思い出話】

・なんだか、ただ日程をなぞっているだけで、全然おもしろくありませんね。一つひとつ詳しく書いているとえらく長くなってしまうので、お許しをいただきますが、今回函館に行けたのが、僕としては一番の収穫だったでしょうか。今回が二回目で、函館の観光スポットは五稜郭と幕末に建てられたギリシャ正教の教会などの建造物群だと思いますが、前回、十数年前ですが、その時は教会群の方に行ったので、今回は五稜郭が目当てでした。五稜郭タワーというのがあり、まずはそこに上って全貌を見るわけですが、確かに西洋的というか、日本の城郭とはまったく違う様相です。歩いてみても、よく幕末の時代にこんなものが作れたなと感心する思いでした。ただ、2年前に再建が終わったという奉行所の建物が新しすぎることもあってか、全体に綺麗すぎるというか、整い過ぎている印象もあって、それなりに歴史好きの僕としては、もうちょっと“廃墟感”がほしいなという感じでもありました。

・それで、余談めきますが、十数年前の教会群の見物の際に、とても印象的なことがあって、今回はあまり見かけませんでしたが、その時は修学旅行の学生をたくさん見かけました。その中で、高校生ではない、もちろん中学生ではない女子の一団があって、なんというか、異様に(?)容貌が整った女の子たちなのです。譬えは悪いかもしれませんが、あの北朝鮮の女子応援団を思わせるようなグループでした。制服を着ているので、どこかミッション系の短大とかだろうか、それにしても、こんなに身長もそろっていて、全員が人目を惹く顔をしていて、そんな学校があるのだろうか、と思ってしまいました。

 今なら、おじ(い)さんの特権として、「どこの学校?」と聞いたかも知れませんが、その時は聞けませんでした。そしたら、イーゼルを立てて、教会の絵を描いていたおじさまがいて、立ちどまった彼女たちに聞いてくれたのです、「どこの学校?」。その答は、「(誇らしげに)宝塚音楽学校です」。深く深く納得でした。

 そんなことも?思い出させてくれた四泊五日でした。羽田に着き、空港内の蕎麦屋でお昼を食べましたが、一番搾りも一本注文して、一人慰労会(?)で締めくくった次第でした。

2022/11/25

86、旅に出てきます(2022,11,15)

【一日遅れになりました】

・14、15日と、打ち合わせや会議があり、協会事務局に出ていたので、一日遅れになりました。その前、13日の日曜日、5回目のワクチンを打ち、今回初めてファイザー社だったのですが、副反応はまったく、といっていいほどなく(その日の夜にロキソニンは飲みましたが)、無事でした。  

 協会では、一週間前の土日、宇都宮セミナーがあり、僕は新美南吉童話賞の選考と重なり、参加できなかったのですが、きむらゆういちさんの講演会、翌日の分科会も含め、とても中味の濃い、いい集まりになったようです。スタッフの皆さん、ご苦労様でした。

【20日から、“旅”に出ます】

・さて、今度の日曜日に僕は仙台に向かいます。児童文学学会の研究大会のためで、本来なら一日目の19日から行くのですが、今回は“その後”があり、自分の出番のある二日目の20日に向かいます。 出番というのは、二日目の午後に行われるシンポジウム「現代児童文学をいかに歴史化するか~資料の保存・活用の方策を考える~」のパネラーとして、話をします。資料の保存といったテーマのシンポジウムというのは、多分初めてではないかと思いますが、僕がパネラーに指名されたのは、協会の資料集の編纂に当たったからで、併せて、個人誌を発行しながら「現代児童文学史」を書いている、ということもあると思います。

・なので、その二つの話をしようと思っていたのですが、ここ一、二年、僕は妙に「資料」との出会い、というか、考えさせられる事態に直面していて、ひとつはこのブログにも書いた、黒姫童話館で「八郎」原稿を始めとする斎藤隆介資料を目にしたこと、そして今年度になって、著作権遺贈を受けて那須正幹さんの資料の整理を始めていること、さらにこの著作権管理ということと関連して、以前に協会が窓口となっていた新美南吉関連の資料についても、まとめなければならなくなったことなど、物事は重なる時には重なるものだなと、感じています。発言の持ち時間が20分なので、全部しゃべるのはどう考えても無理があるのですが、こういう機会に簡単にでも触れておく意味はあると思うので、なんとか項目だけでも、話したいと思っています。

【そこから北海道に】

・僕は例年のことですが、11月下旬に、児童文学ファンタジー大賞の授賞式で、小樽に行っています。主催している絵本・児童文学研究センターのセミナーの中で、授賞式も行われるのですが、今回は結局受賞者なしに終わりました。ただ、今年でこの賞も終わりということもあり、セミナーに呼んでもらいました。これが23日です。

 ということで、仙台から帰って、すぐまた北海道に向かうというのもムダな感じがし、この機会に、仙台から新幹線で北海道に行こうと考えました。北海道新幹線に乗るのは初めてです。20日は、仙台の姉の所に泊まり、翌日新幹線で函館に向かい、一泊。そして22日に小樽に行き、二泊します。合わせて四泊五日になるわけで、こんなに家を空けるのは、何十年か前にアジア児童文学大会に参加するため韓国に行った時以来のような気がします。晩秋というより、初冬の東北・北海道を満喫してこようと思います。次回は、その報告になるでしょうか。

2022/11/16

85、長谷川潮さんのこと(2022,11,5)

【長谷川潮さんが亡くなられました】

・児童文学評論家・研究者で、『日本児童文学』の編集長なども務められた、長谷川潮さんが亡くなられました。85歳でした。9月29日に亡くなられたのですが、10月半ばにご家族からお知らせがあり、ご葬儀に参列することは叶いませんでしたが、来週の月曜日に、きどのりこさん、河野孝之さんと、ご自宅に弔問にうかがうことになっています。

・長谷川さんは1936年10月生まれですから、終戦時は8歳、疎開世代で、実際に学童疎開を体験されました。その時の病気がもとで、脊椎カリエスを発症され、障害をお持ちでした。だから、というのは短絡に過ぎるかもしれませんが、長谷川さんの評論・研究の二大テーマともいうべき対象は、戦争児童文学、そして児童文学に描かれた障害という問題だったと思います。後者については、その集大成ともいえる『児童文学のなかの障害者』(ぶどう社)で、2008年の日本児童文学者協会賞を(評論書の協会賞は珍しいですが)受賞されています。

【「ぞうもかわいそう」のこと】

・戦争児童文学に関しては、かなりの量の論考がありますが、中でも特筆されるのは、絵本『かわいそうな ぞう』を批判した評論「ぞうも かわいそう」で、日本の児童文学の歴史の中で、単独の評論でこれだけの影響力を発揮したものはなかったといっても過言ではないと思います。

・この評論は、もともとは『季刊児童文学批評』の創刊号(1981年8月)に発表されたもので、僕もこの雑誌(今はありません)の同人の一人でした。サブタイトルが「猛獣虐殺神話批判」となっていて、戦時中に上野動物園の象が殺された顛末を描いた、あの有名な絵本『かわいそうなぞう』が批判の対象になっています。およそ児童文学に関わろうという人ならば、これだけは(?)ぜひ一度読んでほしい、それだけの意味のある評論だと思います。 上記の雑誌は手に入りにくいでしょうが、長谷川さんの著書『戦争児童文学は真実をつたえてきたか』(梨の木舎、2000年)の冒頭に収録されています。埼玉県図書館横断検索で調べたら、県内の14館に所蔵されていました。というか、この名著が14館しかないというのはいささか悲しい(ついでに僕の『児童文学への3つの質問』を検索したら29館でした。やれやれ……)。

・さて、その「ぞうも かわいそう」の内容を紹介するとなると、かなり長くなってしまうのですが、あえて簡単にいえば、絵本『かわいそうな ぞう』には、見過ごすことのできないウソがある、ということです。まずは時間経過の問題。絵本では、「戦争が段々激しくなって、東京の町には、毎日毎晩、爆弾が雨のように振り落とされてきました(原文はひらがな分かち書き)」ので、もしも爆弾が動物園に落ちたら大変なことになるというので、猛獣や象が殺処分にされた、ということになっています。しかし、この殺処分は1943年の夏のことで、その頃は(前年に奇襲的な航空母艦からの爆撃が一度だけありましたが)東京の空に爆弾など全然落とされていなかったのです。B29による東京初空襲は、殺処分から1年以上後の1944年11月24日で、「連日連夜」という感じになったのは1945年になってからのことでした。

・ではなぜこの時期に動物の殺処分が行われたかということで、長谷川さんは、いくつかの資料を手がかりにそれを見事に推理していきます。ここはダイジェストは難しいのですが、例えば、絵本の最後の方にこんな場面があります。死んだ象を目の前にした動物園の人たちが、上空を飛ぶ敵の飛行機を見上げながら(上記のように、それはあり得ない光景ですが)、こぶしをふりあげて「戦争をやめろ」と叫ぶのですが、冗談じゃありません。この当時、そんなことを声に出したら、どうなりますか? 長谷川さんは「敗北以外のなにものもないことを知りつつ、あそこまで戦争を続行し、死ななくてもいい人々を多数殺した連中が、猛獣による危害を本当に心配するほど人道的などということはありえなかった」と書いています。この告発の重さには、当時僕も目を開かされ、その後B29の東京初空襲を題材にした絵本『麦畑になれなかった屋根たち』(童心社、その後てらいんく)を書いたのも、これに少なからず影響を受けたように思います。

【少し、個人的な思い出を】

・長谷川さんでやはり思い出されるのは、長谷川さんのご結婚のことです。僕が最初にお会いした当時はまだ独身でした。僕が協会事務局に勤めるようになって、事務所が今の神楽坂の前の百人町の頃ですから、1980年あたりのことだったと思います。

 ある時、事務所に女子学生が訪ねてきました。当時は、大学で児童文学を勉強している学生などが、事務所を訪ねてきたりすることが時折あり、そういう学生をアルバイターにしたりすることもありました。その学生は平井えり子さんと名乗り、なかなか“ナマイキ”な口をききました(このパターンもよくあることでした)。僕も30歳そこそこの頃ですから、そういう場合はかなりていねいに?論破して、相手をしました。それがきっかけで、平井さんは僕らがやっている評論研究会や協会主催の研究会に顔を出すようになったのです。

 当時の研究部長は上笙一郎さんだったと思いますが、研究会といってもかなり準備が杜撰?だったりで、これは後から聞いたのですが、参加者が長谷川さんと平井さんだけ、ということもあったようです。そうです、その平井さんが長谷川夫人となったわけです。

 三人のお嬢さんに恵まれ、お孫さんもいることは長谷川さんからうかがっていましたが、長谷川さんより大分若かった平井さんは、残念ながら早逝されました。今度ご自宅に伺う際に、そのお嬢さんにお会いできるのも楽しみにしています。 長谷川さん、長いこと、お疲れさまでした。また平井さんと侃々諤々、戦争児童文学(いや、ジェンダー論かな)をめぐる論議など、再開してください。

2022/11/05

84、インボイス制度について(2)(2022,10,25)

【前回の続きです】

・前回は、17日の勉強会で学んだことなどをもとに、インボイス制度の仕組みについて書きました。今回は、では具体的に、これにどう対応したらいいのか、という、言わば実践編になります。

 今のところ、まだ限られた出版社ですが、「アンケート」という形で、インボイスに登録するかどうかを尋ねてきたところがあるようです。僕自身も、毎月本の紹介を書いているところから、この1月にそうしたアンケートが送られてきました。僕はまだ回答を保留しています。ただ、これから登録の期限である3月に向けて、そうした問い合わせが多くの出版社から送られてくることが予想されます。

・結論的にいえば、「今のところ、すぐに登録する予定はありません」と答えるか、「今後、登録のプラスマイナスを見極めて判断したいので、しばらく保留します」というふうに答えるのがベターかと思います。但し、売り上げ(印税等の著作権収入や講演料などの合計)が1000万円を超えて、すでに消費税を納めてきた方の場合は、登録しない理由はないと思います(但し、後で述べる個人情報の問題は残ります)。

【すぐに登録しない方がいい理由は】

・「適格請求書発行事業者」に、すぐに登録しない方がいい、もしくは保留した方がいい理由ですが、登録しないからといって、出版社から急に仕事が来なくなる、といったことはまず考えにくい、ということです。これが、例えば運送業者のような場合、小さい会社で免税事業者でインボイスに登録しないところがあれば、他の(登録した)規模の大きい運送業者に乗り換えられてしまう、といったこともあり得るでしょう。また、例えば雑誌のライター的な仕事とか、図鑑などのカットを描く絵描きさんとかの場合は、(言葉は悪いですが、取り換えの効く仕事という要素が強いと思われ)そういうこともなくはないように思います。ただ、相手が作家の場合は、そもそもほとんどの人が免税事業者だし、あなたに払う消費税が控除されないから他の作家に依頼します、というようなことは、考えにくいと思います。

 そして、実は、この制度には三年間の「移行措置」というのがあって、インボイスに登録していない相手に支払った消費税についても、三年間は一定の割合で控除が認められます。ですから、あわてて登録しなくても、少なくとも三年間はある程度の猶予はあるわけです。

【もう一つの問題は……】

・ここまで書きませんでしたが、このインボイス制度の発足については、特に文化団体などからは、もう一つの問題が指摘されています。それは、登録した会社や個人のリストが、国税庁のホームページに記載されるということです。例えば児童文学者協会は前回書いたように、すでに売り上げに拠って消費税を納めていますから、発行業者として登録し、登録番号をもらうことになります。そうすると、それが国税庁のホームページに記載されるので、協会に印税を支払う出版社は、それを見て協会の登録番号を確認し、協会からの請求書と照合して(今まで印税を受け取る際に請求書は必要ありませんでしたが、これからは求められるでしょう)まちがいがないか確かめることになります。協会のような団体とか会社であれば、そこに載っても特に問題はないわけですが、フリーの個人の場合は、特にペンネームの人などで住所が載ってしまうと、個人情報をさらすことになってしまいます。漫画家さんなどは、この点を一番危惧しているようです。ただ、ホームページにどのように記載されるかは、まだ未確定のようではあります。

【さらに危惧されることは】

・ということで、上記のように、少なくとも、いま急いで発行業者に登録することはむしろデメリットの方が大きいと思います。ただ、今後の問題として、何度も書いたように、出版社側からすれば、(登録していない)著者に支払った分の消費税が今後は控除されないわけですから、だったら、「今までは印税に消費税をつけていましたが、これからはつけません」あるいは「消費税分を印税から減らします」というような対応をしてくることは、可能性として考えられます。これについては、個人の問題ではないので、協会としても他団体と連携して対応していきたいと思いますが、もしもそういう申し出などがあった場合には、ぜひ協会に情報をお寄せください。

 以上、本当にざっとしか書けなかったので、前回も書きましたが、勉強会の録画・録音を直接聞きたいという方は、事務局までお申し出ください。

2022/10/25