藤田のぼるの理事長ブログ

ちょっと(?)うれしい話

【事務局で……】

◎「理事長ブログ」の4回目ですが、会報の僕の就任あいさつ文を読んで初めてこのブログを開いてみたという方もいらっしゃると 思います。まあ、たいしたことは書いていませんが、よろしければ遡ってのぞいてみてください。それから、会報の僕の写真、花と一緒に写っていますが、これは『日本児童文学』の発売元である小峰書店の小峰広一郎社長から「理事長就任祝い」ということで事務局に送られてきたものです。こんな豪華な花をいただいたのは、大分前のことになりますが、ロッテマリーンズが日本一になった時に、当時選者を務めていた童話コンクールを仕切っていた広告代理店から事務局に花が送られてきて以来のことで(僕が長年のロッテファンであることについては、また改めて……)、その時はただびっくりしましたが、今回は小峰さんからということで、じっくりとうれしく感じ、次良丸さんに写真を撮ってもらいました。

◎私的なことになりますが、僕は家に出産を控えた娘が戻ってきていたこともあって(おかげさまで、5月初めに無事に出産しました)、4月5月は、感染のリスクを考え、事務局にはほとんど足を運べませんでした。6月あたりからぼつぼつ週に一・二度、ラッシュの時間帯は避けながら埼玉の自宅から神楽坂の事務局まで出向いています。文化団体の中には、4・5月あたりには事務所を閉じたところもあるようですが、児文協の場合は雑誌を定期発行していて、その編集実務を担当している次良丸さんは、執筆者や印刷所のやり取りなど、テレワークというわけにはいきません。また、宮田さんもこの時期は決算や予算という大変な仕事があり、帳簿などの資料を全部持ち帰るというのもかえって大変なこともあり、ほぼ通常通りの勤務でした。また総会がウェブ開催になったことで、その準備が例年よりかえって大変だった面もあり、二人のことがとても気づかわれましたが、幸い無事に乗り切ってもらえて、本当に良かったと思っています。

【『日本児童文学』掲載作品のこと】

◎先週の月曜日だったか、その日は午後から他所で別の会合があり、事務局には短い時間しかいられなかったのですが、ちょっとうれしい話を聞きました。『日本児童文学』に掲載された作品を、某社で月刊絵本のテキストに使いたいというお話があったということで、会員からお知らせがあったというのです。月刊絵本の著作権に関するご相談も含めてのお電話だったようです。ことのついでに書いておくと、『日本児童文学』に掲載された作品を出版することについては、協会や小峰書店の許諾が必要といったしばりはありません。どの出版社からどんな形態で出版するか(しないか)については、著者の判断に任せられます。(出版や作品集に収録などの場合、もちろん報告はいただきたいですし、可能な範囲で、元が『日本児童文学』に掲載された作品であることを表記していただければと思いますが。)

また、これは今週の木曜日(2日)のことですが、午後から組織部長のいずみさんに来ていただいて、来年3月の大牟田セミナー(これについても、また改めて)に向けての打ち合わせをしました。その前にメールチェックをしていたら、この数日の間に、『日本児童文学』掲載作品についてのメールが二つあり、一つは京都の中学校の校長先生から、掲載された詩を「校長室通信」に掲載したいとの依頼、もう一つは中国の方から(日本在住の方かと思われますが)、前に賢治と南吉のオマージュ作品を募集したことがありましたが、その賢治のオマージュ作品の入選作を翻訳して中国の雑誌に掲載したいというものでした。前者については、作者に連絡してOKをいただき、後者については、まずはその雑誌の性格などについてお知らせいただくよう返信しました(僕がやったのではなく、次良丸事務局長が)。

たまたま同じ時期に重なった、ということでもありますが、『日本児童文学』がいろいろなところで読まれているということを改めて実感し、とてもうれしく思いました。また、京都の中学校の例は、以前なら無断で使用されていたケースかもしれませんが、著作権についての認識が多少とも広がっていることの表れでもあるように思います。ちなみに、この校長先生は、古本屋で『日本児童文学』を入手されたようで、できれば購読してほしいところです(笑)。

うれしいついでに(というと変ですが)もう一つ。事務局に、学研プラスから『うちにカブトガニがやってきた!?』という本が届いていたのですが、これは協会と学研プラスが共同で募集している「感動ノンフィクション大賞」の優良作品受賞作で、これまで最優秀賞受賞作は何冊か本になっていますが、佳作に当たる優良賞で学研から出版されたのは初めてだと思います。生きた化石ともいわれるカブトガニを家で飼育し卵から孵すという話で、とてもおもしろい味わいのノンフィクションです。ぜひ図書館へリクエストして読んでみてください。

◎この「理事長ブログ」、前にも書きましたが、一応「5のつく日」を目途に更新していく予定です。律儀に「10日に1回」にしなくてもいいような気もするのですが、長く続けるためにも、これくらいのペースがいいかなと思っている次第です。今回は“今”の話題になりましたが、これも前に書いたように、むしろ児文協に関わる“昔話”がメインになると思うので、楽しんで(?)いただければ幸いです。

2020/07/04

『日本児童文学』編集長のことなど

 

【新理事会で】

◎6月22日の月曜日、新メンバーによる総会後初めての理事会が、やはりウェブ会議の形で開かれました。協会の役員は2年任期で、偶数年の総会は理事・監事を選出し、活動方針案を策定する、言わば「表の総会」の年になり、奇数年はそれがない「裏の総会」になります。今年はその「表」の方だったわけですが、この年の6月理事会は、常任理事を選出すると共に、各部の部長(および委員会の委員長)を決めるのがメインになります。協会には組織部など10の部と二つの委員会があります。

 やはりどの部もある程度の経験が求められる面があり、かつては同じ人がずっと一つの部の部長を続けるというケースもあったのですが、それはそれで弊害もあり、ここしばらくは、「二期(4年)務めたら交替」という原則でやってきました。但し、国際部のように、特別な知見が求められる部もあり、「原則として」ということになりますが。

◎部長が決まると、その部長から部員に入ってほしい人をあげてもらい、これを7月理事会で調整し(あまりダブったりしないように)、部員の委嘱をします。ですから、新しい部・委員会の体制ができるのは(お断りがあったりで)8月一杯くらいまでかかります。一方で、前の部が企画していたイベントなどもあるわけで、6月から10月くらいまでは、新しい部と前の部とが並行して仕事をすることになり、会議の数も増えますし、その間の引き継ぎや調整ということも必要になってきます。

 それで、今コロナでリアル会議ができにくくなっている中で、各部の体制が大きく入れ替わるのはいろいろ支障が出てくることも予想され、今回だけは「二期4年で交替」という原則を外して、基本的に前部長に続けてもらうことにしました。ただ、部長の中でもっとも“激務”といえる機関誌部長(『日本児童文学』編集長)は、高橋秀雄さんがすでに二期務めていて、さらに続けてほしいというのは無理があり、ここは新しい方にお願いしようということになりました。

 この結果、新編集長には奥山恵さんが推薦され、空席となった研究部長には、理事に復帰された河野孝之さんが、そして濱野京子さんが理事から降りられたので、濱野さんが委員長だった子どもと平和の委員会は、西山利佳さんが新たに委員長を務めることになりました。他の部・委員会はすべて再任、また常任理事についても、加藤純子副理事長を含めて留任となりました。

【『日本児童文学』編集長のこと】

◎ということで、来年の1・2月号から奥山編集長を始めとする新しい編集委員会の担当になります。この編集企画の仕事はすぐにも始めなければならず(従って、機関誌部だけは7月理事会を待たずに先に発足します)、上記のようにしばらくは(11・12月号まで担当する)旧編集委員会と新編集委員会が並行して仕事を進める形になります。ちなみに、1・2月号が例年創作特集なのは、新しい編集委員会が(最初の号で)あまり企画で悩まなくても済むように、という含みもあります。

◎奥山さんが編集長を引き受けますと話してくれている画像を見ながら、僕は自分が編集長を引き受けた時のことを思い出していました。1992年ですから、今からもう28年前のことです。話がいちいち古いですが、さすがにまだ生まれていなかったという会員はほとんどいないですね(笑)。

『日本児童文学』が今のように、隔月刊・自主発行の体制になってからすでに20年以上になりますから、月刊で出ている時代を知る人もぼちぼち少数派かもしれませんが、当時は文渓堂が発行元で、月刊でした。実はその二年前、1990年の時にも理事会で編集長就任を求められたのですが、固辞しました。自信がなかったからということもありますが、(この時はちょうど40歳でした)“若手”に仕事をおしつけてなにもフォローしない協会の体質に反発を覚えていた、ということもありました(まあ、いろいろあります)。それで、2年後にはさすがに引き受けたわけですが、やはり一番に考えたのは、どなたに編集委員をお願いしようかということでした。真っ先に思いついたのは、相談相手としてぜひ編集委員会に入ってほしいと思った宮川健郎さんでした。ただ当時彼は宮城教育大学の先生で仙台に住んでいたわけですが、評論仲間として若い頃からの友人でもあり、なんとかお願いできました。編集長として僕が考えていたことの一つは、創作、ノンフィクション、詩、評論、読書運動といったジャンル同士の交流を図りたいということで、そういうモチーフから、先輩で抜群の人脈を持つ砂田弘さんを顧問役に、きどのりこ、国松俊英、重清良吉(亡くなられましたが、すぐれた詩人であり、創作に対しても深い造詣をお持ちでした)、そして(読書運動のベテランであると共に作家でもある)山花郁子の皆さんに委員をお願いしました。今思い出しても、ベストメンバーだったな、と思えます。

◎編集委員会時代の一番の思い出は、仙台・秋保温泉での編集会議でしょうか。いつも宮川さんに東京に来てもらうので一度はこちらから行こうということで、仙台での編集会議となったのです(言うまでもなく、みんな自前です)。これが特に印象深いのは、その時に話し合われた特集が安房直子さんの追悼特集になったことで、確か仙台の会議が先に決まっていて、安房さんが亡くなったことを受けて急きょ追悼特集になったのではなかったかな。安房さんが10歳から13歳までを仙台で過ごしたというのも、この時に初めて聞かされてびっくりしたのではなかったかな。そしてこの特集の年譜で、初めて母の安房久子さんが実の母ではなく叔母であったことが公表されたのでした。93年10月号でした。

 最後は昔話となりましたが、奥山新編集長、そして新編集委員会を、よろしくお願いします。

 

2020/06/25

総会を終えて今は/児文協と僕の出会い

【総会を終えて、今は……】

◎「理事長ブログ」2回目になります。実は、1回目は6月5日にアップしようと準備していたのですが、事務局長ブログ時代から大分間か空いてしまって、アップの仕方があやふやだったので、10日に事務所に行った際に、次良丸さんに確認してもらい、ようやくアップしました。事務所に行って驚いたのは、機関誌版元である小峰書店の小峰広一郎社長から「理事長就任祝い」のとても立派な花籠が届いていたことで、せっかくなので、花と一緒に写真を撮ってもらいました。それはともかく、5日にアップできなかったことで、総会報告としてはやや遅くなってしまいましたが、今回は、当初の予定通り15日です。僕としてはできれば10日に1回、5のつく日に更新していきたいと思っています。5時55分生まれで(本名は「朝日が昇るころ」で「昇」です)、5が一応ラッキーナンバーなので(笑)。

◎さて、協会の〈今〉としては、総会で選出された新理事による最初の理事会を、22日に予定していて(今回もウェブでの会議になりますが)、ここで各部・委員会の部長(委員長)が決まります。部員・委員の決定は次の7月になりますが、そのあたりから新体制が動き出すことになります。次回のブログは、第1回理事会の報告がメインになると思いますが、今回は自己紹介がてら、僕と児文協との出会いについて(前回予告したように、いかにも「昔話」ですが)少し書かせてもらいます。

【児文協と僕との出会い】

◎その前に、今更の話ですが、「児童文学者協会」を略して「児文協」です。これに対して、「児童文芸家協会」は「児文芸」です。(似ていますが、「略」のポイントが違っています。)それから絵描きさんの団体である「児童出版美術家連盟」は「童美連」です。この3つが子どもの本の著者団体ということになりますが、子どもの本の世界では、国際交流組織である「日本国際児童図書評議会」も、翻訳家や編集者だけでなく、作家・画家・研究者も含めた著者団体の性格も持っていて、こちらの略称はJBBYです。

◎さて、僕の学生時代は1970年をはさむ時期で、いわゆる学園紛争が盛んな時期でした。僕は秋田の生まれで、大学も秋田大学教育学部でしたが、68年に入学してまもなく、学園封鎖(ロックアウト。もちろんコロナではありません。警察が学内に無断で入ったことがきっかけだったか)があり、夏休みまで授業がありませんでした。そんな中、秋だったと思いますが、学生寮の友人の部屋で、たまたま斉藤隆介の『ベロ出しチョンマ』という本を手にしたのが、児童文学との出会いでした。その中の「八郎」という作品は(一般には絵本でおなじみですが)秋田弁で書かれていて、僕は自分が育ってきた言葉で、こんなにも深いことが語られるのか、ということに衝撃を受けたわけです。

 それから一年ぐらいしたころでしょうか。これもたまたま僕は書店で『日本児童文学』という雑誌を目にしました。つまり、当時は秋田の書店の店頭にもこの雑誌が置いてあったのです。以来、この雑誌が僕にとってはバイブルのようになり、まわりに児童文学をやっている人は誰もいませんでしたから、ひたすらこの雑誌で勉強しました。が、なにしろ授業にはろくに出ていなかったので、一年留年することになりましたが、その年に、一年生が何人か集まって、僕が半分顧問のような感じで「秋田大学児童文学研究会」というのを作りました。僕は一年生たちに『日本児童文学』の購読を強要?し、それもなるべく違う書店で取らせるようにしました。そうすれば、その書店で、僕のように、この雑誌と出会う人が出てくるかもしれない、と思ったからです。なんと、今から50年近く前のことです。

 つまり僕は、学生時代に勝手に『日本児童文学』秋田営業部長(?)をやっていたわけで、それからいろいろありましたが(それも折々書かせてもらいますが)、あの頃秋田で一人で『日本児童文学』を読んでいた自分、というのが、協会との関わりの“原点”ということになるでしょうか。

◎これを書いている間に、れいわ新選組の山本氏が都知事に立候補とか。遅いよね、さすがに。でも、選挙はわからないよ、最後まで。

2020/06/15

総会報告と理事長就任の弁

【ウエブ総会が無事に終了】

◎5月30日(土)、協会にとってはもちろん初めての試みでしたが、例年の定時総会を、今年はウェブ会議の形で開催しました。一般社団法人として、毎年必ず決算や予算、事業計画などを総会で決定、承認することは定款で定められており、「今年は都合が悪いからやりません」という選択肢はなかったわけです。とはいえ、コロナの関係で、今年度については、延長や文書での開催などもOKということは、総理府から示されていました。

 児文協としては、3月頃の時点では、会員の方には無理に出席していただかず理事を中心に集まって、後は委任状で総会を成立させるというパターンを考えていました。しかし、4月に入って理事が集まること自体もリスクが小さくない(なにしろ僕も含めて“高齢者”も多く)という状況になり、極端な話、事務局でごく少人数で開催してあとは委任状という形式も考えましたが、このあたりから文学賞の選考委員会や理事会をウェブ上で開く試みがまずまずうまくいったので、総会もウェブ会議で開催してみては、という話になりました。

 とはいえ、実際にどの程度の方が参加してくださるだろうかという懸念もあったわけですが、蓋を開けて見ると80名を越える参加申し込みがあり、むしろ例年の総会よりも多い数になりました。ただ、そうなると今度は、その人数でのウェブ会議が果たしてうまくいくかどうかという心配が出てきて(それまでは数人か精々20人程度まででしたから)、当日の開始を迎えるまで、「大丈夫だろうか」という思いがぬぐえませんでした。

◎結論的には、とても大丈夫だったわけで、北は北海道の三浦幸司さん、升井純子さん、南は沖縄の新垣勤子さんまで80人近い方が参加され、「こういう形なので参加できた」「来年からも、こういう形を考えてください」という意見も出されたほどでした。とはいえ、この人数ですから、実際に画面に登場し、ご発言いただいた方は限定されましたが、ご参加いただいた皆さん、どうもありがとうございました。そして、このウェブ総会を準備するに相当のエネルギーを使った事務局長の次良丸さん、情報ネットワーク部の榎本さん、そして議長を務めていただいた西山さん、大変にご苦労様でした。

◎総会の報告は、7月初めに発行の会報で詳しくなされますが、ここでは役員交代についてご報告しておきます。今回の総会で、前期の理事のうち内田麟太郎理事長を始め、一色悦子、中川なをみさん、原正和さん、濱野京子さん、山崎玲子さんの5人が退任されました。4年間理事長を務められた内田さん、本当にご苦労様でした。仕事の分野でも人間的にも幅の広い内田さんのおかげで、大分児文協のイメージアップが図られたと思います。また、一色さんは数少ない支部出身の理事として、組織部、会報部、子どもと平和の委員会などで力を発揮していただきました。中川さんは、今関信子さんと共に関西センターの立ち上げに尽力されました。原さん、濱野さん、山崎さんは、また立場を変えて、協会の仕事を続けていただけると思います。そして、今回は河野孝之さんが理事に復帰され、指田和さん、しめのゆきさん、東野司さんの3人が、新たに理事に選出されました。

なお、監事は2名のうち真鍋和子さんが今回退任され(間中さんは再任)、新たに山口理(さとし)さんが就任されました。真鍋さんは理事の時期も含め、長く役員を務めてこられました。新監事の山口さんはウェブ会議で、愛犬と共に就任のあいさつをされました。

【藤田が新理事長に選出されました】

◎そして、総会の途中で第1回理事会が開かれ(といっても、これもウェブ上ですが)、僕・藤田のぼるが新たに理事長に選出されました。僕は長く事務局長、そして副理事長を務めてきましたが、組織のトップである理事長というのはいかにも似合わないという自覚はあるのですが、この状況の中でそうも云っておられず、自分で言うのもどうかと思いますが、「実務型」の理事長として、僕なりに関わっていければと念じています。その手始めというか、事務局長時代にこの場で「事務局長ブログ」という形で発信していましたが、今回から「理事長ブログ」と看板を変えて、協会の今をめぐるあれこれや、時には児文協の“昔話”などもお伝えしていきたいと思っています。どうぞ、よろしくお願いいたします。

2020/06/10

5月5日の上野の森 親子フェスタ

【上野の森 親子フェスタとは】

総会通知に同封してお知らせしたように、5月3日から5日まで、東京・上野公園で、児童図書のフェスタが開催されました。2000年の子ども読書年を受けて01年から始まったものですが、昨年は事情で中止、2年ぶりに開催されたものです。出版社がそれぞれブースを出し、すべての本が2割引きで販売されます。合わせて、サインセールや読み聞かせ隊による公演、そして公園内の施設を使用しての講演会なども並行して行われる、一大イベントです。

今回、再開に当たり、児童書の出版社(今回は84社が出店)に加えて、著者団体にブースを提供してもらえるというお話があり、童美連、児文芸と話し合って、一日ずつ受け持つことにしました。それで、児文協は最終日、子どもの日の5月5日ということになったわけです。これまで小峰書店のブースの一部をお借りして、『日本児童文学』の宣伝をさせてもらったことはありますが、一日のみとはいえ、ブースを借り切り、イベントとして成功させるというのは、なかなか責任の重い感じのことでもありました。

【当日に向けて】

初めてのことでもあり、手探りの準備でもあったのですが、出展の内容を、①機関誌『日本児童文学』の宣伝、②協会編のアンソロジー、出版企画の宣伝、③会員著書のサインセール、の3つにしぼりました。通常は、上記のように定価の2割引き販売で、会場内に設けられたレジテントでまとめて精算というシステムなのですが、雑誌を少しでも手にとってもらおうと、思い切って500円で販売することにし、3冊ずつ15種類のバックナンバーを並べることにしました。(新しい号は、小峰書店のブースで通常価格で扱ってもらいました。)協会編のアンソロジーは、偕成社の出店がなかったため(販売できるのは、フェスタに出店する出版社の発行物に限定)、「おはなしのピースウォーク」(新日本出版社)と「きらきら宝石箱」「どきどきびっくり箱」(文渓堂)の3シリーズとしました。「ピースウォーク」の長編版が間に合えば並べられたのですが、フェスタにはちょっと間に合わず、チラシをおいて宣伝しました。

サインセールについては、果たしてどの程度売れるものやら見当がつかず、またスペースの問題や、そもそも今回の出展がぎりぎりに決まったこともあって、今回は理事会で手を挙げてくれた高橋秀雄さんが、いとうみくさん、河野睦美さん、せいのあつこさんに声をかけ、まずは4人でやってみることに。加えて、ちょうどこの日、くもん出版のブースでサインセールをすることになっていた内田麟太郎さんにもお願いし、さらに子どもたちの足を止めるために、木村研さんに手作りおもちゃコーナーをお願いして、当日を迎えることになりました。

【そして、当日は……】

5日は、おかげにて格好のフェスタ日和でした。僕は前日の4日、大学の授業に行く前に(今、大学は授業時間確保のため、祝日でも結構授業があるのです)、上野公園に“偵察”に行ってみたのですが、前夜からの強風のため、テントの一部が壊れたということで、著者団体のテントの場所が移動していたり、朝も風が強く、かなり大変な様子でした。

当日は、上記のメンバーや事務局の次良丸さんのほか、機関誌編集長のいずみさん、「ピースウォーク」と「きらきら」「どきどき」の執筆者の方たちも来てくださり、心強い布陣となりました。僕は午前中は、園内の国際子ども図書館で行われたアーサー・ビナードさんの講演会のほうに出ていたのですが、ブースに戻ってみると、機関誌バックナンバーは半分ほど売れており(もっとも午後はほとんど売れませんでしたが)、高橋さんたちのサインセール用の本も、まずまず少なくなっていて、安心しました。午後からは、上記の講演会の司会を務めた加藤純子さんがブースに参加し、「きらきら」「どきどき」の販売を担当、25冊あった「きらきら宝石箱」は、完売! といううれしい結果となりました。これには、同シリーズの挿画を担当してくださったあんびるさんがフェスタのために提供してくださったハート型のレターセットの“おまけ”も威力を発揮したようでした。

【お疲れ様でした!】

ということで、まずは協会のブースをがんばって出しただけのことはあったな、という手応えでありました。サインセールの方たちやスタッフとしてお力を貸してくださった方たち、誠にお疲れ様でした。そして、当日は、たくさんの会員の方たちが会場においでくださいました。これもうれしいことでした。

一方で、課題というか、来年に向けて(まだ確定しているわけではありませんが、多分来年以降も著者団体のブースは継続されると思います)反省点もあげられます。「きらきら」「どきどき」に対して、「ピースウォーク」はあまり売れませんでした。もちろん売れる・売れないにかかわらず並べたことの意味もあると思いますが、「ピースウォーク」のようなシリーズに目を止めてもらうには、なんらかの仕掛けが必要のようです。

それと、今回は、出展が急に決まったこともあり、事務局主導で準備を進めましたが、総会前の忙しい時期に、特に次良丸さんはかなり大変だったと思います。この点も、来年以降は、このフェスタへの出展をどこかの部・委員会で担当する形にするか、特別の体制をとるかしないと、続けていくことが負担になってくると思います。

以上、2日遅れになりましたが、上野の森・親子フェスタのご報告でした。なお、当日の様子は、主催団体の一つJPIC(出版文化産業振興財団)のホームページでも見られます。

 

 

 

 

 

2016/05/07

皆様、良いお年を!

久しぶりにというにもおろかなほど、久しぶりのブログです。今出しつつある年賀状の最後に、「今年は、事務局長ブログで折々に発信していきたい」などと書いたので、年を越す前に一言と、思った次第です。

【ドボルザークの髭】

今年は僕にとっては65歳という節目の年で、協会事務局に出る日が少なくなった分、特に大学の講義がない時期は、少し時間がとれるようになりました。そこで、夏から一念発起して、大宿題の「現代児童文学史」にとりかかり、自分なりに目標を定めようと、個人誌を発行して、連載の形で書いていくことにしました。それで、11月に個人誌『ドボルザークの髭』1号を発刊しました。この誌名は、僕の最初の評論集『児童文学に今を問う』の序文からとったもので、僕の評論活動の大きなテーマ、モチーフとして、やはり「時代と児童文学」ということがあり、学生時代に児童文学を読み始めた時から意識していたことでした。その時に思い出したのが、中学生時代に(部活のブラスバンドで毎日通った)音楽室で見た音楽年表のことで、音楽史上の時代区分が帯のように表されているわけですが、例えば古典派とロマン派の境目は斜めの線になっています。ところが、自分たちの教室にある歴史年表の例えば鎌倉と室町の境目はまっすぐな線なわけです。その時、中学生の僕は「そうか、文化・芸術の流れというのは、そういうことなのか」と思ったわけです。そして大学生になって児童文学を読み始め、時代と児童文学ということを意識した時に、そのことを思い出したわけです。音楽年表でインパクトがある顔といえば、なんといってもベートーベンとドボルザークで、それで左右がつりあっている感じです。ドボルザークは僕が初めて知った作曲家でもあり(子どもの頃、ラジオで「ノボルジャック」と聞いてしまいました)、それで「ドボルザークの髭」です。(うーむ、大分はしょってしまって、意味不明かな。)

話は違いますが、去年(いや、まだ今年ですね)の1月から、法政大学の通信課程のスクーリング(一日2コマずつ一週間)を担当したのですが、最後に質問を書いてもらったら、たくさんあってとても時間内に答えられませんでした。そしたら一人の学生が、「先生、ブログをやってらっしゃるようだから、そこで答えてくださったら」というのです。協会ブログをそういうふうに使うのもためらわれたのでやめときましたが、初めて会った学生(といっても、通信課程は年代は様々ですが)が、担当の教員のことを知る手立てとしてブログを見るという(別に協会のホームページからでなくても、僕の名前を検索すると出てきますね)、考えてみれば当たり前のことに、ちょっと「へえ」と思ってしまいました。それが一年前のことでした。なのに、今年はブログをほとんど更新できず、“反省”しての年末となりました。

【新入会員の集い】

反省といえば、1月23日(土)に新入会員の集いがあり、そこで僕は協会の歴史などについて話すことになっていたのですが、これが上記のスクーリングと重なっていた(前回は午前の2コマだったのが、今回午後の2コマになっていた)ことを失念していて、出られないことが判明! という、ちょっとショックなことでした。丘理事長に代わってもらうことにしたので、新入会員の皆さんにはかえって良かったかもしれませんが、本当にごめんなさい、の世界でした。(ちなみに、その後の懇親会には出ます。今からでも申し込めます。)

そんなわけ? で、いよいよ来年は創立70周年の年です。「日本児童文学」の3・4月号が記念号になりますが、僕は編集委員会から、50周年記念号に書いた「年表」の続きを書くように要請され、結構時間がかかりました。これは、普通の年表とは少し違って、エピソードなどを入れて、楽しく(?)読めるようにした年表で、50周年の時は当然最初の方は自分がいない時代のことですから、逆に書きやすかったのですが、今度はがっつり自分が関わってきた20年間のことなので、距離感がつかめない感じで、時間がかかりました。3月なので、記念号発行までまだかなり時間がありますが、一応「乞・ご期待」と申し上げておきます。

それでは皆さんにとって来年が実り多い年になりますように!、

 

2015/12/28

8月8日、「ランドセルをしょったじぞうさん」を見てきました

【残暑お見舞い】

「暑い」としか言いようのない日々ですが、皆様にはいかがお過ごしでしょうか。このブログ、季節を一つまたいでしまいました。7月の終わりまで出講している大学の授業があり、レポート採点も終わって、ようやく一段落というところです。

【古世古和子さん主宰の追悼集会に】

そんな8月8日(土)、協会の名誉会員である古世古和子さん主宰の(そして事実上の主催でもある)法要と講演会の集いに参加するため、八王子まで行ってきました。古世古さんの作品に『ランドセルをしょったじぞうさん』という作品があり、これは戦時中の疎開児童がアメリカの戦闘機の機銃爆撃で亡くなったことを題材にしています。当時は、八王子周辺は、「疎開する」方ではなくて、「疎開される」方の土地だったのですね。品川の小学生たちがお寺や児童施設などに分かれて生活していたわけですが、そのうちの一人が機銃掃射で亡くなったということを、戦後八王子で教員となった古世古さんは知るわけですが、その子の名前も学年も、亡くなった日も正確にはわからない。それを長い時間をかけて調査し、作品化していったご苦労(モノカキにとっては、それはある種の“喜び”でもあったと思います)は、『ランドセルをしょったじぞうさん』の続編『かかしの家』の長い後書きで紹介されています。その過程の中で、亡くなった子の母親が、疎開先の一つだった相即寺の地蔵堂の中の一体の地蔵に我が子の面影を見て、遺品のランドセルを背負わせていた、そしてそれを住職が大切に守ってきた、という事実も発掘するわけです。戦争の物語というのは、それ自体もドラマですが、その取材過程もまたさまざまなドラマがあることが多く、この作品の場合も、本当に古世古さんの執念が悲劇の実相を露わにさせていった典型例だと思います。

そして、10年前、戦後60年の際に、古世古さんは、元の疎開児童や地域の人たちに呼びかけて、地蔵堂のある相即寺で法要を行い、記念の集会が持たれました。その際に、協会に後援依頼があり、その後も8月8日に集いが続けられていたようです。今年戦後70年の節目ということもあり、古世古さんの講演も聞きたいと思い、参加しました。寺に着いたら、最上一平さんがスタッフとして靴を入れる袋を配っていてびっくり、一色悦子さん、八王子在住の会員菊地澄子さんにも、久しぶりにお会いしました。

古世古さんは85歳になられたいうことですが、休憩をはさんで2時間近く、迫力のあるお話ぶりで、感銘を受けました。折から、八王子はこの日が夏祭りで、古世古さんのお話にもあった八王子の歴史を垣間見る感じでもありました。

【今年は、僕は】

今週、13日に秋田に帰省します。本来だとまっすぐ実家に行って両親や兄の墓参りをしなければならないのですが、秋田市に直行(実家に帰る場合は、秋田新幹線の途中の角館という駅で降ります)、翌14日の午前中に秋田市の郊外土崎という港町で開かれる「土崎空襲」70年目の祈念集会に参加の予定です。8月6日や9日の原爆が、「あと一週間、十日早く戦争が終わっていれば……」とよくいわれますが、終戦前夜の14日から15日未明にかけて空襲を受けたところがいくつかあります。埼玉県の熊谷もその一つですが、秋田の土崎港もそうなのです。当時秋田には油田があり、それが狙われました。戦争で家族を失った人たちの悲しみに違いはないとはいえ、この夜に死んだ人たちの無念さはいかばかりだったかと思います。ここ何年かそのことが気になっていたのですが、今年思い切って「最後の空襲」の現場に立ち会ってみようと思いました。

「戦争を知らない子どもたち」というのは、実は元々僕ら団塊の世代を指していたわけですが、終戦から5年目に生まれた僕が今65歳になり、「もっと戦争を知らない子どもたち」に何が語れるか、深く考えたい夏です。(この項終わり)

 

2015/08/09

総会の月になりました

【5月は総会の月?】

5月になりました。ここのところ、5月の最終土曜日が総会というのが定着しましたが、その前はもう一つ前くらい、“下旬”の土曜日でした。一週遅くしたのは、文学賞贈呈式を以前の土曜日(総会の後)から前日・金曜日に移したことで、児童文芸家協会の贈呈式と重なるケースが出てきたためですが、事務局としては、一週間延びた分準備に余裕があるので、ウェルカムです。(特に、活動方針審議や役員改選のある年は、連休の後がバタバタで大変でした。)

ところで、協会の総会は昔から5月に決まっていたかというと、そうでもありません。僕は1974年に入会しましたが、確か最初の頃は4月だったのです。それが、一度“春闘”のストライキで交通機関がストップし、延期になってしまったことがあり、以来5月にした、というのが体験だったか聞いた話だったか……。そうです。その頃は、日本でも、ちゃんと待遇改善のためのストライキというものがあったのですね。

それで、年表を確認してみると、僕が入会した74年は4月27日に総会が開かれています。そして、次の75年は5月10日、76年が再び4月で24日、77年が5月14日、78年が5月20日で、その後は概ね5月の後半という時期に定まっています。でも、74年までずっと4月だったのかというと、そうでもなくて、73年は5月19日、72年は4月22日とバラバラ、68年などは6月1日にやっていますから、この頃のパターンはよくわかりません。その時のさまざまな状況で決めていたのでしょうか。ともかく77年からは総会は38年間、例外なく5月に開かれています。

【綱領の問題について】

さて、今回、総会通知に、綱領再検討に関する特別報告というのを同封しました。新しい会員の方たちにとってはかなりに唐突な印象だったかと思いますが、なにしろ綱領に関する提起がなされるのは1970年代以来ということですから、大半の会員の方たちにとって、「なぜ、今?」という疑問が当然おありかと思います。

かなりに長い文章になったので大変と思いますが、めったにないことなので、特別報告をよくお読みいただくとありがたいです。中に書かれているように、当時の関英雄理事長が、綱領の第一条の改定を提起したのは1978年、ちょうど上記の、総会の5月開催が定着した頃のことです。そして、以下いささか私的なことになりますが、この問題について論議が伯仲していた79年に、僕は協会の事務局員になりました。実は、それと前後して、僕も会報にこの問題について投稿したのです。細かい点は覚えていませんが、基本的には関提案を支持する立場で、それ以上に、関提案への反対意見が、なにか「民主主義をとるべきでない」の一点張りで、関氏の問題提起の最大のモチーフである協会の将来像ということに答えてないことへのいら立ちみたいなものがありました。

そしたら、会報編集の責任者だった塚原亮一総務部長(当時は会報部というのはありませんでした)に、「これから事務局員になる君が、なんだかみんなをしかりつけているような文章で、これは掲載しない方がいいと思う」と言われ、僕もそれもそうだなと思って、“ボツ”になりました。だから、というわけでもありませんが、綱領の問題はずっと心のどこかにひっかかっていました。今回創立70周年ということで、次の80周年になってしまったら、当時のことを知る人はほとんどいなくなってしまうことも予想され(僕自身にしてもですが)、なんとかここで、少なくとも当時の論議の紹介だけでもしなければと、理事会に持ち出した次第でした。

理事の皆さんの熱心な論議で、こういっては語弊があるかもしれませんが、僕が思っていた以上に問題が深まり、僕自身としては、事務局員になった時からの宿題が、事務局員をやめたこの年に少し果たせた気がしています。会員の皆さんに、これを機に「綱領」について考えていただく中で、協会の70年の歩みの意味を受け止めていただければうれしいです。

 

2015/05/01

4月“新体制”になりました

【事務局、二人体制に】

4月も、今日でちょうど半月ですが、会報や事務局ページでお伝えしているように、この4月から、事務局長の僕は、役職としてはそのままですが、事務局の「職員」としては完全にリタイアしましたので、事務局は次良丸・宮田の二人の体制になりました。一人減るとは言っても、10人が9人になるのとは違います。一人が休めば事務所にいるのは一人になってしまうわけで、もともとこういう団体の事務局員というのは、「わたしはその担当ではありません」というのは通用せず、なんでもやらないといけないようなところがありますが、二人にかかる負担はかなりなものになります。僕も出しゃばらない程度でフォローしていければと思っています。

【僕の一週間】

ロシア民謡で「一週間」というのがありますが、僕は(これは数年前からですが)週に3日、大学の非常勤講師として出講しています。火曜日と金曜日(午前の1コマ)が聖学院大学(3月に姜尚中学長の突然の辞任で話題になりましたが)、水曜日が東洋大学です。東洋大学は夜間部があり、1部の学生対象の5限と2部(夜間部)対象の6限の2コマあります。昨年度までは授業のない月曜日と木曜日に協会事務局に出て、火曜日と金曜日は授業を終えてから事務局にということだったので、結構ハードでしたが、今年度からは事務局に出るのは月曜日一日と、(70周年関連の仕事があり)金曜日の午後ということで、火曜日の午後、水曜日の午前、木曜日がまる一日空く感じになりました。これを有効活用せねばと、恥ずかしながら(でもないか)、受験生のように一週間の計画表を作り、机の横にはりつけました。

かねてから、例えば那須さんとか、いわゆる専業の人が、よく自分で時間を管理して仕事ができるなあ、と感心していましたが、まあ僕はこの程度の空白具合がちょうどいいような気がします。このブログの更新ももう少し“時々”になれるかと思います。では、今日はこれから、東洋大学の今期2度目の授業。「学校・教室」が舞台の作品について話すことになりますが、つい最近見た映画「ソロモンの偽証」(良かった!)の話などもしようと思います。

 

2015/04/15

合同ミーティングのことなど

【恥ずかしながら……】

今年初めての更新です。年明けから一番時間がとられていたのは、出講している東洋大学の創作の授業の作品へのコメント書き。もう一つの聖学院大学の創作の授業のほうは、ゼミ的な規模なのでいいのですが、東洋大学のほうは、2コマ合わせて二百数十人の受講者がいます。2010年度からですから今回で5年目ですが、人数が多いとはいえ創作の授業なので、レポートとは違い、やはりコメントをつけて返さなくては、と思ったのはいいのですが、以来年末年始はほぼそれで忙殺されます。今年は休講があった関係で、最後の授業が2月にずれこみ、その分時間があったのですが(最終授業で作品を返却するので)、大変な時期が延びただけみたいな感じでした。加えて、今年から1月の終わりから2月にかけての6日間、法政大学の通信学部のスクーリングで児童文学の講義をしました。多分、小学校の教員をしていた20代の頃からぶりに(今の学生、こういう言い方しますね)一週間続けて朝の6時台に起きました。通信学部なので、学生の年代はまちまちですが、予想以上の熱心さと、レポートの優秀さには驚きました。そんなわけで、ここまではなかなかまじめに先生をしていました。

【1月24日の合同ミーティングで……】

協会の1月は、例年理事会はなく、隔年で「各部・委員会合同ミーティング」と「新入会員の集い」が開かれます。新年会を兼ねて、ということになりますが、今年は合同ミーティングでした。これは、協会の活動の各分野を担当する10の部と2つの委員会のスタッフが一堂に会するもので、7、8年前から始めています。協会は来年創立70周年ですが、会員は当然かなり入れ替わっているわけで、各部・委員会のスタッフといっても、新しい会員も少なくありません。そこで、この合同ミーティングでは、毎回協会のいろいろな分野の歴史を誰かに話してもらって、認識を深めるという“勉強”をしています。

今回は、「会報に見る協会の歩み」ということで、事務局長の僕が話をしました。会報というのは、機関誌の『日本児童文学』とは別に、会員のみに送っている会内報のことで、今は「Zb通信」というのが、年4回発行されています。僕が直接知っているのは、1970年代からですが、その頃はタイプ印刷「児童文学の旗」というのが会報で、その後冊子の形の「児童文学手帖」になり、97年に機関誌が隔年・自主発行となった際に、今の「Zb通信」になりました。もちろん、それ以前にも会報的なものは発行されていたわけで、今回合同ミーティングで話をするために古い資料をひっくり返して、いろいろな発見もありました。

さて、僕がその話の準備をしている時、24日当日の10日ほど前でしょうか。理事の中では最古参の上笙一郎さんから電話があり、古い資料を探していたら、昔の会報が出てきたから、良ければ送るよ、とのことでした。もちろんお願いして、上さんから送ってもらった60年代前半の会報も、合同ミーティング当日の資料として、コピーして配りました。

合同ミーティングで僕は50分ほど話をしたのですが、その後上さんが手を挙げて、古いことは自分が一番知っているけれど、会報についてこんなふうにまとめて考えたことはなかった、とてもいい話だった、と、ほめてくれました。ミーティングの後、懇親会の会場に移る時にも、僕に、今日の話はとても貴重だったから、ぜひ文章にしておいた方がいい、と勧めてくれました。

そして、それから5日後の29日です。前述のように、僕はこの時、午前中市ヶ谷の法政大学で講義していましたが、事務局からメールが届き、「上さんが亡くなった」という知らせでした。びっくり、というか、嘘だろう、という感じでした。午後に急いで事務局に戻り、上さんのお宅に電話し、奥さんの山崎朋子さん(「サンダカン八番娼館」などの作家)から亡くなった様子をうかがいました。夜中に仕事を終え、お風呂場で倒れられて、ということのようでした。

2月5日に行われた葬儀は、当初はご親族のみでということでしたが、上さんの近くで仕事をしていた十何人かが参列することができ、僕もうかがいました。無宗教で、奥さんの山崎朋子さんの上さんへの熱い思い出のお話が時間の半分ほどをしめました。いいお話でした。

ということで、今年の合同ミーティングは、上笙一郎さんとのお別れとセットになってしまいました。これをお読みの方で、上さんのことをご存じの方はもはや少ないかもしれません。児童文学に限らず、児童出版美術、童謡、児童史など、実に研究分野の間口の広い人でしたが、彼が比較的若い頃に書いた論文のタイトル(ちょっとうろ覚えです)を一つあげて、彼への追悼にしたいと思います。「児童文学者の体躯矮小なることへの一考察」。享年81歳でした。

 

2015/02/11