藤田のぼるの理事長ブログ

107、「怪物」を見ました(2023,6,26)

【更新が1日遅れになりましたが】

・昨日、池袋の映画館で、是枝監督の「怪物」を見ました。僕は日本の映画を観ることはあまりなく(といっても外国の映画もそれほど観ているわけではありませんが)是枝監督の映画を観るのは、今回が初めてだと思います。カンヌ映画祭の評判もありましたが、これまでの(観ていない)映画でも、評を見て、子どもの描き方が気になっていたので、この機会にと思いました。

 ネットの評などでは、黒澤監督の「羅生門」のように、登場人物それぞれの視点から描かれる構成、といった言い方をされていたのですが、僕はちょっとというか、大分違うように思いました(まあ、事前にそう思わされたから、違いを感じてしまったのかもしれませんが)。 「羅生門」の場合は、主な登場人物3人のそれぞれの視点から出来事が語られ、言わば「どれも本当で、どれも本当ではない」といった印象になるわけですが、「怪物」の場合は、ひとつのできごとの表面と舞台裏という感じで、それらが矛盾するのではなく、合わさってひとつの真実、という感じを受けました。

【ということで、ネタバレになるかもしれませんが】

・例えば、主人公(と言っていいでしょうか)の少年ミナトが、担任から暴力をふるわれたということで、安藤サクラ扮する母親が、校長に抗議に行くわけですが、そこでの学校側の対応は、絵に描いたような、官僚的というか、誠意のない対応で、校長も担任も作文を棒読みするような“謝罪”を口にするものの、責任逃れとしか思えない言葉に終始します。

 これが後では、永山瑛太扮する担任教師の側から描かれるのですが、ここでは「暴力」というのは違っていて、もみあっている二人を引き離そうとして、なぐったような格好になってしまったのですが、新任のこの教師が母親の誤解を解こうとしても、教頭や主任が、母親の怒りがエスカレートするのを怖れて、形式的な謝罪で済ませようとする顛末が描かれます。

・この映画では、上記のミナトと共に、子どもの側の主要な登場人物として、同じ5年生のヨリという男の子がいるのですが、ヨリはクラスではいじめられていて、ミナトはそれをやめさせたいものの、行動に移すことができないでいる、という基本的な設定です。この二人が秘密基地にしているのが、廃線になった駅跡? に残された電車で、そこで二人が過ごすシーンがとても印象的で、僕はかつて観た映画「禁じられた遊び」を連想しました。

【さて、このタイトルですが】

・ネットの評でも、「怪物」というタイトルについての解釈がいろいろ上がっているようですが、心の中にある種の闇を抱えているみんなが(大人でも子どもでも)「怪物」と言える面を持っている、というのは、その通りだと思いましたし、そういう人間たちの関係性自体もある意味「怪物」だとも思いました。その意味で、僕がこの映画で感じたのは、大人と子どもが必ずしも加害者と被害者という関係性ではなく、それぞれに秘密を抱えながら、ある意味対等に渡り合っているところで、それはなかなかいいと思いました。

 それを象徴する場面が、終わりに近く、ミナトと田中裕子扮する校長が、音楽室で二人になるシーンがあります。ミナトは、やや確信犯的に担任を辞職に追い込んだ負い目があり、校長は孫を連れ合いが誤って車で轢いてしまうということがあったのですが、どうやら実際に車を運転していたのは校長で、世間体のために連れ合いの方が罪を被ったらしいのです。

 元ブラスバンドだったという校長が、ミナトにトロンボーンを持たせ、吹き方を教えます。何度か吹いているうちに音が出始めるのですが、校長はホルンを取り出して吹き始めます。ホルンは金管でも一番音を出すのが難しい楽器で、田中裕子はどれくらい練習したかな、などと考えながら、その二つのぎこちない音の重なりが、この映画のテーマを象徴しているようにも(ちょっと無理矢理かな)思いました。

 とても感心、感動したとまでは言えないものの、観てよかったとは思えた2時間でした。

2023/06/26

106,秋田に行ってきました。そして、回文のこと(2023,6,19)

【4日遅れになりましたが】

・この土曜日17日に、秋田で講演と会議があり、前日の16日に出かけ、昨日18日に帰ってきました。そのため、15日はなんやかやと準備に時間を割き、ブログが4日遅れとなりました。

 秋田の講演は、県の生涯学習センターの児童文学の連続講座の2回目で、「児童文学の魅力にとりつかれて~「八郎」からか「ズッコケ三人組」まで~」という演題でした。前に書いたように、その5回目は、協会新人賞の鳥美山さん(秋田県在住)の講演が予定されています。贈呈式の際に秋田のテレビ局が取材に来ていたわけですが、その模様はこの15日のニュースで流れたようです。

・僕は(何度か書きましたが)、大学1年の時に斎藤隆介の「八郎」に出会って児童文学を読み始め、さらに秋田の書店で『日本児童文学』に出会って、評論や創作を目指すようになりました。初めて『日本児童文学』に評論が載ったのが1974年で、来年で50年になります。「よく50年も続いたなあ」という思いもあって、「児童文学の魅力にとりつかれて」という、ちょっと変な演題にしたわけですが、その出発点の秋田で話ができたというのは、うれしいことでした。

・ただ、今回の秋田行である意味一番印象的だったのは、講演が終わって午後の会議の場所であるあきた文学資料館に移動する時、館長さんから聞いた話で、秋田はこの1年で人口が1万6千人減っているのだそうです。1万6千人といえば、一つの町がまるごと消えている計算です。秋田が人口減少率全国1位であることは知っていましたが、「少子化」という言葉も、秋田で聞くと、いっそう切実な感じを受けました。

【そして、回文のこと】

・さて、いささか旧聞になってしまいましたが、この8日に、会員の新井爽月さんの出版記念会がありました。フレーベル館から出た『なかまカナ?』という本のお祝いでした。なにしろコロナになってからこの種の集まりはほとんどなくなっていましたから、久しぶりの出版記念会でした。

・このタイトルでお気づきになったかどうか、「なかまかな」というのは、後ろから読んでも「ナカマカナ」、つまり回文になっています。  

 僕は当日のスピーチでも話したのですが、こうした仕掛けのある作品というのは大好きで、僕自身、かつて『山本先生新聞です』という本を書いた時に、これは3年生の子どもたちが班ごとに新聞を作る話なのですが、その中に「んぶんしんぶん」というのがあって(ちょっと無理矢理ですが、後ろから読んでも同じです)、その班の子たちは、上から読んでも下から読んでも同じ名前を集めるのです。「こいけ・けいこ」が有名(?)ですね。

 「いまい・まい」とか「しかた・たかし」とか、なんとか20くらいは考えついたのですが、それ以上出てきません。当時、淑徳短大で非常勤講師をしていたのですが、授業の時に学生にその話をしたら、いろいろ考えてくれました。今でも覚えているのは、「こんの・のんこ」とか「ありま・まりあ」とか、これは僕のセンスでは出てこないなあ、というのがいくつもありました。おかげで30以上の回文の名前をならべられました。

・そんなことがあったので、本をいただいた時に、タイトルが、さらに主人公の池田圭(いけだ・けい)という名前が回文になっていることには、すぐ気づきました。ただ、圭のクラスに武藤トム君というハーフ(ミックス?)の男の子が転校してきて、ストーリーが展開していくのですが、「むとう・とむ」が回文であることは、作品の中で種明かしされるまで気づけませんでした。

・今回の出版記念会は、新井さんのお仲間の同人誌「栞」の皆さんが中心になって準備されたのですが、この本にふさわしい企画として、「なるべく長い回文を作ってお持ち下さい」「一番長い回文を作った方には賞品を差し上げます」ということで、用紙には32マスが提示されていました。

 なんとか全部埋めようとしたのですが、さすがに無理で、それでもなんとか27文字になりました。次のような回文です。

 ナカマイルヨ イワイニアツマレ マツアニ イワイヨル イマカナ(仲間いるよ 祝いに集まれ 待つ兄 祝い夜 今かな?)

 まあ、かなり無理矢理感は否めませんが、本のタイトルの「なかまカナ?」の中に文を埋め込んで回文にしたわけで、我ながら労作?ではありました。 さて、当日の結果発表。27文字が一番長かったのですが、もう一人いて、それは内田鱗太郎さんでした。同点決勝ということで、ジャンケンで内田さんが優勝ということになりましたが、僕としては言葉の達人である内田さんと優勝を争えて、大満足でした。

 それにしても、これから何かあった時、「(あの人は)なかまカナ?」とつぶやいて、この作品を思い出すことがありそうです。やはり、言葉はおもしろいですね。

2023/06/19

105、総会終了、そして、コロナに(2023,6,5)

  5月26日の学習交流会と文学賞贈呈式、27日の総会は、おかげにて無事に終了しました。今回は、その報告となるはずでしたが、僕は31日にコロナを発症、今日が(5日間蟄居からの)“明け”の日となります。そんな次第で、今回は総会とコロナ感染の、両方の「報告」となります。

【まずは、学習交流会ですが】

・26日の学習交流会。今回は、那須正幹さんの業績をまとめた『遊びは勉強 友だちは先生』の中の、那須さんの生涯を那須さん自身の言葉で構成した第一章「那須正幹のことば」をリレー朗読してもらうという、初めての試みだったわけですが、これが思っていた以上に、心に響きました。

 というのは、朗読というのは、プロがやればともかく、読まれた言葉がなかなか頭に入ってこず、 聞く方はかなり集中というか、緊張を余儀なくされます。その点、那須さんの文章が実際には、3分の1くらいがインタビューをまとめたものという理由もあったでしょうが、まったく抵抗なく耳に入ってくるのです。インタビュー以外の、那須さんのエッセイの部分も、文章がとても平易かつ明晰で、ストレートに理解できます。なにか、本当に、那須さんの話を聞いているようにすら、感じられました。特に、最後の「なぜ日本は平和なのか」は、30年以上前に書かれた文章なのに、まるで今のことを語ってくれているようで、会場が一体となった感じでした。

・その後の、野村一秋さん、薫くみ子さん、司会役の原正和さんの鼎談も、那須さんのいろんな面を伝えてくれました。野村さんは川村たかしさんが主宰していた『亜空間』という、やや伝説の同人誌で、那須さんと一緒というか、「売れっ子作家」と「作家志望者」という関係性だったわけですが、最初の合評会の時の「ゲスト講師」が「藤田のぼるさんでした」という発言にびっくり。僕が三十代の終わり頃のことで、僕もかなり緊張して参加したことを思い出しました。 実は、司会役の原さんが、前日に、なんとぎっくり腰になったという連絡があり、心配したのですが、そんな気配も見せず、なごやかに締めてくれ、その後の(楽しみにしていた)文学賞贈呈式と祝賀会も、スムースにかつ楽しく終わりました。

【翌日の総会は】

・今年は、役員改選のない、言わば“裏”の総会だったこともあり、それほどの緊張感はなかったのですが、むしろ一番気がかりだったのは、リモートがうまく機能するかどうかという点でした。というのは、前日の学習交流会や贈呈式はこちらから画像と音を流す「一方通行」でいいわけですが、総会の場合は、支部の方や発言を希望する方からの発言を受けて、会場に流さなければいけません。ところが、開始前にそれがうまくつながらず、あきらめかけたところでなんとかつながり(どうやら、会場のサンプラザ側の問題だったようですが)、信州支部の山崎さん、沖縄支部の池宮城さん、そして来年のセミナーを予定している岡山支部の小郷さんの声が流れて、一気に「全国がつながっている」感になりました。

・ことしの総会は、初めて「那須正幹著作権管理委員会」の報告があったこと、決算・予算に関して(特にホームページ改修の費用について)文書ではわかりにくい所を僕から改めて説明したこと、 そしてやや久しぶりの総会声明の決議がなされたことなど、例年にない事項もあったわけですが、これは7月の会報や同封文書にゆずります。パーティーが開けなかったことは残念でしたし、できれば2日ともリモート参加がもう少し増えてほしかったという思いはありますが、まずまず僕自身としては良かったとおもえる2日間でした。

【そして、日曜日】

・総会の翌日の日曜日、カミさんが「熱がある」というので計ってみると38度台後半、もしかしてと思いキットで抗原検査をしてみると陰性でした。しかし、翌日病院でコロナと判定、結構大変そうでした。自宅隔離のようにして、3日経過しても僕はなんともなかったので、大丈夫かなと思った水曜日(31日)の夜に寒気がし、計ってみたところ37度台後半。でも、キットでの検査では陰性です。翌日、病院に行ったらすぐPCR検査で陽性と判定されました。

 ただ、僕の場合は、熱も3日目には平熱になり、症状も鼻水と少々の咳くらいで、特に苦しいという感じもありませんでした。とはいえ、もちろん外には出られず、昨日まで引きこもりの5日間を過ごすことになりました。今日が、言わば“明け”の日になります。

・まわりで罹患した人は結構いましたから、検査キットは用意していましたが、上記のように、カミさんも僕も“空振り”でした。看護師さんによれば、1日目というのは、むしろ反応が出にくいのだそうです。自分がいざかかった時に、どこにどうれ連絡すればいいのだろう、というのも心配でした。僕は、特に持病もないのでも歯医者以外、「かかりつけ」の医院というところがないのです。でも「発熱外来」で検索するといくつか医院が出てきますし、カミさんの知っている病院に電話すると、すぐ予約できました。指示されたとおり、駐車場で待って、そのまま車の中で検査をしてもらい、先生の話を聞き、という具合で、とてもスムースでした。半面、持病があるような場合、車が使えないような場合などは、困るだろうなとも感じましたが。(いずれにしても、地域差があるかもしれませんね。)

・しかし、考えてみると、カミさんの発症があと一、二日早ければ、僕は総会に出られなかったわけです。また、僕は6月17日に、秋田で講演を控えているので、その点でも、こういう言い方を許していただければ、いいタイミングではありました。  

 今回改めて思ったのは、普段の健康管理がとても大事だな、ということ。上記のように、僕は特に持病がないので、その点では余計な心配をせずに済みました。そして医療というのは、社会システムだな、ということも改めて実感しました。ワクチンも含め、僕らは確かにそれに守られているわけで、そういうシステムを作ってきた営みに感謝しなければという思いと共に、そうしたシステムを後退させないようにしなければな、というようなことも切実に思いました。

 最後に、具体的な情報をひとつ。僕は食欲は問題なかったわけですが、パンや弁当に飽きた場合、「ガストの宅配」は使えます。(あっ、でも、場所によるか……)

2023/06/05

104、贈呈式が楽しみです(2023,5,24)

【一日早いですが……】

・今回は、このブログで初めてのケースですが(何日か遅れてというのは、何度もありましたが)本来の25日付を一日早めて24日に更新です。

 というのは、明後日26日(金)が、総会前日の学習交流会、そして文学賞贈呈式です。直前ではありますが、これを読んで、出欠を出し忘れた方が一人でも気がついてくださればと、一日早めました。

・そもそも、というか、十年余り前までは、文学賞贈呈式は、土曜日の総会後にやっていました。そして、翌日の日曜日が総会付設研究会というパターンでした。その付設研究会を、よりオープンなものにしようということで、秋の時期に「公開研究会」を設定して、東京と地方で交互開催というふうにしました。そして、文学賞贈呈式は、総会前日の金曜日の夜に変更しました。 その大きな理由は、贈呈式は関連団体の代表の方たちと共に、出版社の編集の方たちをご招待します。ところがかつてと違って土曜日は休みというのが定着したので、出版社の人たちは休日に出てこなければいけないことになったわけです。それで、金曜の夜の方が出てもらいやすいだろうということになりました。実際、金曜日にしてからお客様が増え、中野サンプラザの一番広いパーティー会場が、二百数十人の参加で一杯になるということが続いていました。特に若手の会員にとっては、編集者と顔見知りになれるいい機会でもあり、あちこちで名刺交換する姿が見られました。

・ところが、この三年、コロナ禍のために、そのパーティーができなかったわけです。ちょうど僕が理事長になってからのことで、ですから僕は、贈呈式のパーティー会場で理事長として挨拶する、ということが、まだできていません。

 2020年と2021年は、リモートの総会の後に、「文学賞お祝いタイム」を設け、リモート上で受賞者を紹介し、ご挨拶いただくという形にしました。たまたま2020年の協会賞の受賞者が、イタリア在住の佐藤まどかさんで、イタリアからご挨拶いただくという、リモートの威力が発揮される結果になりましたが、やはりネット越しのお祝いというのは、不完全燃焼の気持ちがありました。

・それで、昨年は、パーティーは無理でも、贈呈式だけはしようということで、学習交流会をリアルも含めたハイブリッド開催にして、その場で(かなり略式ながら)贈呈式と公募賞の表彰式を行ったわけです。今回は、できればパーティーありの、本来の形に戻したかったのですが、肝心の会場の中野サンプラザが、7月の閉館を控えて、パーティー開催は受付けておらず、また今度の会場の家の光会館も、広いパーティー会場はあるのですが、まだそうした催しは解禁しておらず、ということで、昨年同様の形になることになりました。

【今年の受賞者は……】

・さて、今年の受賞者・受賞作ですが、すでに発表されているように、協会賞が山本悦子さんの『マスク越しのおはよう』(講談社)、新人賞が鳥美山貴子さんの『黒紙の魔術師と白銀の龍』(講談社)、そして三越左千夫少年誌賞が星野良一さんの『星の声、星の子へ』(銀の鈴社)です。 新人賞の鳥美山さんが僕と同郷の秋田の方であることは前回書きましたが、協会賞の山本さんは、新美南吉の出身地である愛知県半田市にお住まいで、僕は新美南吉童話賞の選考をご一緒しています。2016年でしたが、山本さんの『神隠しの教室』が協会賞の最終候補作になり、最後(5人の選考委員のうち)2対3で惜しくも受賞を逃したのですが、僕は「2」の方でした。今回、コロナ禍の中の子どもたちを描いた作品で受賞と決まり、「7年越しのおめでとう」という感じです。また、星野さんの詩集は、僕は久しぶりに新人らしい詩集に出会ったなという感じで、レギュラーで書評を書いている「ベルマーク新聞」で紹介したりしました。(気がついておられるかどうか、詩集のタイトルを読み直してみてください。)

 そんなわけで、今回3人の方に賞状をお渡しできることを、殊にうれしく思っています。

・今日でも、明日の申し込みでも、リアル参加でしたら当日の飛び入りでも構いませんので、リモートはスマホでも見られますから、一人でも多くの方が、学習交流会と贈呈式の様子を目にされることを願っています。

2023/05/24

103、児童文庫のことなど(2023,5,16)

【パソコンのトラブルで……】

・前回は、機器の不調というか、ブログ更新のページがなぜか開けず、休載という次第になり、その旨のお知らせのみになりました。それで、ブログ登録のためのURL(という用語でいいのかな?)を、改めて事務局から送ってもらうよう次良丸さんに頼み、その前に「念のため」と思って、今ある登録用のページを開いてみたのですが、あら不思議、あれほど何度やってもダメだったのが、ちゃんとそのページに入っていけるではありませんか。パソコンは、時々、こういう訳の分からないトラブルの時がありますね。

 でも、多分、理由はあるのだと思います。少し前に、メールを打とうとして、左上の方に、なんというか、ランプがつくように、ポポポポという感じで四角いマークが出てきて、メールを打ち込めなくなる、というトラブルがありました。他のこともあり、いつもパソコンの修理などをお願いしている方に来てもらったのですが、理由は分かりません。

 その時、彼がふと、僕が画面の下のメールのアイコン(でいいのかな、インターネットとかワードとかのマーク)をダブルクリックするのを見て、「藤田さん、そこは一回クリックでいいんです。もしかして、メールのアイコンをダブルクリックしているせいかもしれません」と言いました。ダブルクリックだと、メールが2回立ちあがってしまうことになり、それがもしかして上記の症状の原因かもしれないという訳です。「確かではありませんが……」と言って帰りましたが、その後一回だけのクリックにするようにしたら、確かに前のようなことがなくなりました。文書などを呼び出すときはダブルクリックなので、ついその癖が出ていたのだと思います。さすがプロだなと思いました。

【児童文庫の書き手のことなど】

・で、前回の「お断り」に書いたように、昨日(15日)は、総会前の最後の理事会でした。今年度は役員改選のない総会ですから、二年の任期の半分がすでに終わったことになります。

 この2022,23年度で協会としては初めてのことですが、それまでの「活動方針」というのがなくなりました。なにか「作文」のための活動方針という感じで、それが実際の活動に活かされていないのではないかという反省からでした。代わって、前期の2年間の活動の「総括文書」というのを作りました。前期の総括だけでなく、そこから今期の活動の具体的な課題を引き出そうというものです。この文書は、昨年の会報112号(7月の総会報告号)に載っています。そこでは、「次期に向けた課題」として、5点があげられています。この中では、3の協会としての「発信」の強化という課題に関して、ホームページの改修や、4の那須さんの著作権管理の仕事など、まずまずこの一年で進んできたこともあります。一方、ほとんど手付かずだったのが、2の「会員拡大と機関誌の普及」です。

・これについては、書き出すときりがありませんが、機関誌については、今年度から、いくつかの雑誌に広告を出すなど、「打って出る」取り組みをしようということを、昨日の理事会でも話しました。そして、「会員拡大」という点に関して、ここ数年、僕が気になっているのは、児童文庫の書き手のことです。  

  講談社の青い鳥文庫、角川のつばさ文庫、集英社のみらい文庫に加えて、ポプラ社のポプラポケット文庫などの児童文庫が、子どもの読書の中で大きな位置を占めているのは、書店に行けば一目瞭然です。少し(でもないか)前までは、「若女将」シリーズの令丈さんとか、「黒魔女さん」シリーズの石崎さんとか、ハードカバーの児童書も書く人が「児童文庫も」書くという感じで、書き手がまずまず見えていました。しかし、今は初めから書下ろしの児童文庫でデビューする人が大半で、僕などはそうした作品をほとんど読んでいません。

・そうしたことを改めて感じたのは、『日本児童文学』5・6月号の「子どもの文学この一年」の特集で、編集長の奥山さんを含め5人の評者で、昨年の児童文学を振り返っています。この中で、今まで以上に、書下ろしの児童文庫の状況が話されていて、僕はとても勉強になりました。少し読んでみなければとも思いましたが、こうした書き手を協会の会員の対象として考えていくのかどうか(僕は当然考えていくべきと思いますが)、そうした書き手たちとどうつながっていくのかということが、協会の将来にとって避けて通れない課題だなと、改めて考えさせられた次第でした。

 学習交流会、総会まで、あと一週間余り。実は、今日も結局事務所に来て、これを書いていますが、今度の新人賞受賞者の鳥美山さんが秋田在住の方なので(つまり、僕と同郷になるわけで)、贈呈式をニュースに流したいということで、秋田のテレビ局から取材の申し込みも入っていました。 リアルでもリモートでも、一人でも多くの方のご参加をお待ちしています。

2023/05/16

(2023,5,9 機器トラブルのため、一回休みます)

連休、いかがお過ごしだったでしょうか。

さて、このブログですが、普段は自宅のパソコンで、入力し、アップしているわけで、5月5日の夕刻、いつものようにそれをしようとしました。

まず、ワードで文章を作って、インターネットの「お気に入り」に入れているブログの新規登録用の画面を呼び出し、ワードの文章をコピーします。

ということで、新規登録用の画面に、いつものようにIDとパスワードを入れると(IDの最初の文字を入れると、記憶されたIDとパスワードが現れるので、それで済みます)、打ち込む前の画面に戻ってしまい、ブログ登録用の画面に移行しません。何度か試みましたが、ダメでした。

それで、今日(9日)事務所に来て同じことをやってみたら、こちらは大丈夫でした。なぜなのか、次良丸さんにも相談してみましたが、わかりません。

考えてみたら、5日に登録するつもりだったワードの文章を、昨日でも、メール添付で事務局に送っておけば、今アップできたわけですが、そこまで気がまわりませんでした。まあ、いずれにしても、大したことは書いてなかったので、今回はお休みにさせていただきます。

それはいいとして、問題はこれからです。事務所のパソコンの、登録用の画面を、もう一度自宅に送りなおしてもらって、それで試みてみます。多分、それで大丈夫なはずですが……。

ということで、次は15日になりますが、その日は理事会なので、翌日になるかもしれません。ボツになった5日付のブログの最後に書いたことだけ、ここに書いておきます。

●総会通知はとっくに届いていると思いますが、26日の学習交流会の那須さんの本の朗読者は、すでに埋まりました。今年も文学賞贈呈式のあとのパーティーは(会場の関係もあり)できませんが、二次会的な(?)祝賀会は予定しています。学習交流会も土曜日の総会も、もちろんリモート参加歓迎ですが、条件のある方は、ぜひリアル参加もしてください。あと、総会後欠席の場合は、委任状(メールでも構いません)を忘れずに。

 以上、「一回休み」だかなんだかわからない内容になりましたが、こんなこともあるのですね。

 

 

 

2023/05/09

102、総会声明のことなど(2023,4,25)

【総会まで一月】

・5月27日の総会(前日26日は学習交流会と文学賞贈呈式)まで一か月となりました。今日は事務局で総会案内状の発送作業をしているはずで、明日発送、郵便物が遅れがちですが、連休前にはなんとか届くかと思います。

 今年は役員改選のない年で、お送りする議案もやや少なめになるのですが、その中に、総会声明の案文があります。「安保3文書」に反対する声明です。 声明文(案)の裏に説明をつけて、そこにも書いたのですが、協会で出す声明のパターンには概ね3種類あって、一つは「総会声明」。当然ですが、これは総会の時にしか出せません。それで、総会時ではなく緊急を要する場合は、「理事会声明」という形をとります。ただ、理事会がこれは「日本児童文学者協会」という名義で出すべきだし、その方がいいと判断した場合は、「協会声明」ということになります。この中で、やはり総会の名で出す総会声明が、協会にとって一番重みがあるかと思います。

・今回の総会声明は、上記のように岸田内閣の「安保3文書」に反対する声明で、「子どもたちが再び戦場に立つことがないように!~日本を「戦争をする国」に変質させる「安保3文書」に反対します~」というタイトルです。この中身を書いていると長くなりますし、まもなく案文が届くわけですから、それをお読みいただければと思うのですが、強調したいのはその最後の部分です。以下、最後の段落部分のみ、引用します。

 

 今回とりわけ危惧されるのは、日本の進路を大きく左右するこのような決定が、国会に諮ることすらなく、閣議決定という形で押しつけられようとしていることです。わたしたちは、安保3文書の撤回と共に、きちんとした情報が提供される中で、日本の安全保障のあり方、国際貢献のあり方について、国民的論議が保障されることを求めます。そして、わたしたち一人ひとりがそうした国民的論議に主権者として参加していく決意を、ここに表明するものです。

 

 これまで協会の声明はいろいろありましたが、多分最後は「〇〇ゆえに、●●に反対します」というパターンの結びがほとんどだったと思います。しかし、今回は、私たち自身が、(もちろんいろいろな意見があり得るだろうし、分からないこともたくさんあるわけですが)こうした大事な問題を政治家任せにせずに、国民、市民の一人として、議論に参加していくということが、とてもとても大事だと思うのです。ある意味、中身の問題以上に、こうした大切な問題が一方的に決められていくということに危機感を感じてもいて、こうした結びにしました。

 そして、だとすれば、協会がこうした声明を出すこと自体やその中身について、「理事会がそう言うのなら、まあいいんじゃない」ということでなく、疑問に思う点や付け加えたい点など、会員の皆さんから積極的に出していただくことがその第一歩かと思います。よろしくお願いします。

※岩波の『世界』の5月号で、この問題を特集しているようです。ぼくもこれから見てみます。

【那須さんは左利き?】

・話は全然変わりますが、『ちゃぐりん』という雑誌をご存じでしょうか。JA系の家の光協会が出している子ども向け月刊誌で、学研の『科学』と『学習』もなくなった今、ほとんど唯一残っている子ども向けの総合誌(読み物もマンガも情報記事もいろいろ)ではないでしょうか。実は那須正幹さんの多分最後の創作作品が載ったのも(2021年7月号)、この雑誌でした。

 この雑誌に、「いのちの歴史」という連載があって、いろいろな分野で業績を残した人の一生をマンガで紹介する、言わばマンガ偉人伝といった趣です。今年の7月号のこの欄で、那須さんを取り上げることになったのです。僕はこの雑誌では毎号新刊紹介を書いたり、掲載記事を対象にした感想文コンクールの選者を務めたりしています。そういうご縁で、那須さんの「伝記」の監修をすることになったのですが、あがってきたマンガの原稿を見せていただいて、「あれっ?」と思ったことがありました。那須さんが手紙や原稿を書いている場面が、全部左利きの形になっているのです。僕の知る限り、那須さんは右利きでした。編集部から漫画家の方に確認してもらうと、こちらで参考資料に指定した、中国新聞の連載インタビューで、那須さんが東京から郷里に戻りお父さんの書道塾を手伝うことになったというところで、「僕は左利きで(習字は得意じゃなかった)」という言葉があったのです。このインタビュー記事、何回も見ていたはずなのに、気が付いていませんでした。

 さて、問題は、左利きだったとしても、ボール投げなどは左だったでしょうが、果たして字を書くのも左だったかどうか。そして、僕らが知る那須さんは確かに右手で字を書いていましたから、いつからそのようになったかということです。それによって、漫画の絵柄が変わってくるわけですから。

 ということで、奥さんや幼なじみの方に問い合わせたり、この何日か、那須さんの「利き手問題」でいろいろやりとりしましたが、結局確かなことは分かりませんでした。子ども時代、箸を持つのはやはり左手だったようですが、果たして字はどちらで書いていたのか。でも、子ども時代の那須さんが(字はともかくとして)左利きだったということが分かって、なんだかひどく新しい発見をしたような気になりました。

 ところで、今年の(総会前日の)学習交流会は、那須さんの追悼本『遊びは勉強 友だちは先生』の第一章「那須正幹のことば」(那須さんのエッセイなどから、その生涯を再構成したもの)を、12人の方に朗読してもらって、みんなで聞こう、という趣向です。(第二部は、那須さんをめぐっての鼎談です。)朗読者も募集中です。ぜひ手を挙げてください。

2023/04/25

101、協会事務局に新メンバーです(2023,4,16)

【まずは、言い訳から】

・前回に続いて、新年度早々「5の日」を過ぎてしまいました。昨日(15日)、元々スケジュールが詰まっていたのに加え、急いで対応しなければならないことがあり、今日になりましたが、今日も私用でお昼前に出かけなければならず、今回は短めに、お伝えしたいことを書きます。

【事務局に、三十年以上ぶりでニューフェイスです】

・というのは、この4月から、協会事務局に新しいメンバーが加わったのです。事務局は僕が事務局に勤めていた時期は3人体制だったわけですが、僕が辞めた時点で財政上の問題で新しい事務局員を入れることができず、二人プラス非常勤(会員の間中さんに講座関係の実務をお願いし)という形になり、今も次良丸さんと宮田さん、そしてアルバイターという構成になっています。

 実は、その次良丸さんが来年3月に定年を迎えます。内規でもう5年はいてもらえるのですが、次良丸さんは、定年で事務局勤務としては区切りにしたいとの意向でした。

・なにしろ、僕が事務局長だった時期とは違い、次良丸さんは事務局長の職務に加え、雑誌の編集という大事な仕事も担当しています。この後任となると、相応のキャリアの人でなければならず、どうしようかと頭を悩ませました。かつては、事務局員を募集する際は公募をして若い人を入れていたわけですが、今回はそれでは間に合わないわけで、誰か周辺で適任者はいないかという話になったたわけです。

・結論から言うと、実にぴったしの適任者を迎えることができました。会員で理事経験者でもある原正和さんです。原さんは、昨年の日本児童文学者協会新人賞の受賞者でもあります。

 おまけに、というか、原さんは今まで出版社ではありませんが、公益財団に勤めていて、そこで主に編集の仕事をされていました。協会事務局の給与は安いですから、原さんに声をかけるのはためらいもあったのですが、原さんの方は50歳になり、創作に重点を移したいものの、今までの勤めと両立させていくには無理があり、悩んでいた、とのことで、まあ、お互いに渡りに舟だったわけです

・通常なら、前任者が退職してから入ってもらう訳ですが、上記のように原さんには来年の4月から次良丸さんの仕事をそのまま引き継いでもらわなければならず、1年かけて仕事を覚えていただくため、今年度からの入局となりました。事務局は、三十年以上前に、宮田さん、次良丸さんが入り、それ以降は正規の事務局員は入っていませんでしたから、本当に久しぶりになります。

【40年ぶり?くらいに机の中身を整理しました】

・ということで、僕の机を原さんに引き渡すことになり、神楽坂の事務局に移って以来、のことになりますが、引き出しの中身をかたづけました。始めてみたら、そんなにたいしたものが入っていたわけでもなく、割合早く済みましたが、それでも僕の小学校教員時代(20代)に子どもたちと一緒に撮った写真とか、今40歳を越した娘が中学2年の時にくれた手紙とか、思いがけないものが出てきました。

・ということで、これから事務局に電話された際に、男の声だった場合、次良丸さんと原さんの場合があります。一年で完全に仕事を覚える、ということは大変だと思いますが、原さん、よろしくお願いします。

2023/04/16

100、50年前のこと(2023,4,8)

【ちょうど50年前に】

・新年度、そして記念すべき?100回目のブログということで、「さあ、何を書こうか」と思っているうちに、3日過ぎてしまいました。まあ、これも、この緩いブロらしいでしょうか。

 さて、3月5日の誕生日の時に、「72歳から73歳というのは、特に感慨もない」と書きましたが、ふと「そうでもないぞ」と思い直しました。というのは、僕が大学を卒業して東京に出てきて、小学校の教員になったのは23歳の4月。つまり、それからちょうど50年が経ったわけです。

・本来なら、その一年前、22歳で上京して教員になるはずでした。東京都の教員の採用試験に受かり、勤める学校まで決まっていました。ところが結局単位が足りず、一年留年することになったわけです。でも(これは前に書きましたが)その五年目の時に、秋田大学児童文学研究会というのを立ち上げ、同人誌を2冊出し、そこに書いた「雪咲く村へ」という作品を、『日本児童文学』の同人誌評で那須正幹さんにほめられ、後年それが本になるわけですから、人生、何が幸いするか、わかりません。

【新任の教師として】

・それはともかく、さすがにその年はまじめに授業に出て、都内の私立の小学校に就職することになりました。一学年一学級という、小さな小学校でした。僕は、新任で一年生担任ということになりました。

・その一日目、入学式の時のことは鮮烈に覚えています。アクシデントというか、ハプニングがあったのです。まずは入学式を待つ時間、ベテランの先生なら子どもたちの緊張をほぐすような話題で時間を過ごすでしょうが、僕はその自信はなかったので、絵本を読むことにしました。寺村輝夫さんの『ぞうのたまごのたまごやき』で、読み始めたら結構長いので(練習していた時はそう思わなかったのですが)、「もっと短いのにすればよかった」と思ったことを覚えています。

・さて、入学式です。実は、この一年生のクラス、学校の新しい試みとして、障害を持った子どもを入学させて、いわゆる健常児と一緒に育てるという、初めての試みのクラスでした。自閉症の女の子が一人、そして情緒障害という男の子が一人、そうした子を含んだ(確か)36人でした。

 ハプニングは、校長先生の話の時に起こりました。その情緒障害の男の子が突然席を立って壇上に上がり、校長先生の演壇の中に潜り込んだのです。こんな時、どうすればいいのか、教師1日目の僕には見当がつきません。連れ戻さなければいけないのかなと思うものの、彼がすんなり戻るとは思えず、大騒ぎになるのは目に見えています。それに、校長は平然と話を続けているので、結局僕はそのまま見守るしかありませんでした。(後で聞くと、演壇の中でA君は校長先生を蹴りつづけていたそうです。)

・その時校長は、こんなことを言いました。「人は一生懸命な時が一番美しいのです。A君は、一年生になってうれしくてたまらず、一生懸命その気持ちを表したくて、ここに上らずにはいられなかったのです」と。僕は(母方の)祖父の代から学校の先生ですし、六人兄弟の僕も含め四人が先生という一家だったし、学生時代にセツルメントの活動で子どもたちとは結構接していましたから、ある意味自信満々で先生になったのですが、この一日目でその自信などあっという間になくなりました。同時に、本物の教育者を見たな、この学校に就職できて本当によかったなと思いました。

 ただ、僕はそのクラスを三年生まで担任しましたが(一学年一学級ですから、クラス替えというのはないわけで)、まあなかなか大変な三年間でした。その時の子どもたちをモデルに、僕は『雪咲く村へ』の後に、「山本先生」シリーズ(『山本先生ゆうびんです』『山本先生新聞です』『山本先生ほんばんです』)を出しましたが、A君や自閉症のK子ちゃんのことは書けませんでした。

【講座を受講して】

・これも前に書きましたが、僕が東京に出てきたのは、基本的には就職のためでしたが、児童文学の勉強をしたいということもありました。その二年前から協会の児童文学学校が始まっていたのです。ただ、当時は今と違って秋からの開講だったので、その半年が待ちきれず、目白の子どもの文化研究所で4月から半年の児童文学講座があると聞いて、それに申し込みました。ですから、そこからもちょうど50年ということになります。その講座も確か月2回で、児童文学学校と同じようなカリキュラム(但し、実作指導はなし)でしたから、その講座で初めて児童文学作家や評論家の話を直に聞くことができました。その時の受講者のメンバーの何人かとは今でもお付き合いがあります。

 思えばあれから50年、飽きっぽい僕としては、良く続けてこられたな、という感慨があります。一方で、50年もかかってどれほどのことができたのかという思いもありますが、児童文学を半世紀読み続けてきた者として、できることはちゃんとやらなければと思いを新たにしています。

2023/04/08

99、加藤多一さんのこと(2023,3,25)

【加藤多一さんが亡くなられました】

・全国紙に訃報が載ったかどうか(北海道新聞にはていねいな死亡記事が載りました)、作家の加藤多一さんが、この18日に亡くなりました。享年88歳でした。

 協会の会員なら、加藤さんのことを、「総会でなんか文句を言う人(笑)」として認識されている方も、少なからずかもしれません。児文協の総会は、かつては「文句を言う人」が結構いて、ですから時間もかかり、活動方針案なども追加や修正が入ることがしばしばでした。まあ論議が活発だったとも言えますが、僕から見て、不毛な論議に思えることも少なからずではありました。

 2000年代あたりからでしょうか、良くも悪くも提案された議案は“すんなり”承認ということがほとんどになったのですが、そんな中で“異彩”を放っていたのが加藤さんで、北海道から毎回のように出席され、来れば必ずと言っていいほど、いろいろと意見を出されました。その全部が提案に反対ということではないので、まあ「はい、そうですね」と聞いていればいいのですが、僕がカラミ性なので、よせばいいのに「今の加藤さんの発言は、前提が違っていて……」などと突っ込み、それが協会の総会の“名物”になっていたかもしれません。

【加藤さんの思い出】

・僕が加藤さんと親しくなったのは、加藤さんの『草原~ぼくと子っこ牛の大地~』について評論を書いたことがきっかけだったでしょうか。この作品は1986年の協会賞を受賞した加藤さんの代表作ですが、僕には加藤さんのそれまでの作品との文体の違いがとても印象的でした。ですから、評論でもそのことに触れたわけですが、それを読んだ加藤さんが、今までの評論は、ほとんど題材とかテーマについてしか語ってなかったけれど、文章、文体について論じてもらったのは初めてだ、というふうに喜んでくれて、そのあたりからは総会でも文学的な(?)声をかけられることが多くなったように思います。

・それと重なる時期になると思いますが、協会創立50周年でしたから、1996年か、あるいは97年だったかもしれません。札幌で北海道支部主催の記念集会があり、当時加藤さんが支部長でしたが、僕はその集会に呼んでもらいました。実は、この時が僕にとって初めての北海道行でした。関東以西の人には、秋田の人間がそんな年(40代でした)になるまで北海道に行ったことがないというと、びっくりされるのですが、秋田から北海道は結構遠いのです。乗り物に乗る時間なら、東京の方がずっと近いくらいです。

・それはともかく、それからは北海道に行く機会が多くなりました。たいていは協会の用事や講演などでしたが、一度娘たちがまだ小さい頃ですが、うちの家族4人と、親しい一家(やはりそちらも小さい子を含めて4人)とで北海道旅行をし、当時旭川の近くの(といっても北海道のことですから、かなり距離はありますが)剣淵に住んでいた加藤家に一泊させてもらったことがありました。庭でにぎやかにバーベキューをしてもらい、ジンギスカンをつつきビールを飲みながら加藤さんと話し込んだことが、その時の光景と共に思い出されます。

 そういえば、その十年位前、僕の結婚式に加藤さんに出席してもらい、スピーチをしてもらったこともあり、カミさんも加藤さんのファンでした。

・それから、これもそれと前後する時期ですが、僕が『日本児童文学』の編集長を務めた時、創作の連載を復活させたのですが、真っ先に頼んだのが那須さんと加藤さんでした。那須さんは一つの石をめぐって時代が移っていくタイムファンタジー風な連作で、枠組みがはっきりしていたのですが、加藤さんの方は「オレ」と名乗る「神」が次々にいろんなものに乗り移っていく設定で、どんなふうに展開していくのかまったく読めず、感想を書き送るのに苦労(?)しました。そのお二人は『亜空間』という同人誌のお仲間でもありました。僕にとってはお二人とも文字通りの兄貴分で、加藤さんの訃報で「享年88歳」と聞いて、「あれ、そんなにと年が離れてたっけ?!」と思ってしまいました。加藤さん、度々生意気な口をきいて、すみませんでした。

 実は、今日、25日、小樽で加藤さんの葬儀が行われたはずです。列席は叶いませんでしたが、理事長名で送った弔電で、今日のブログを閉じさせていただきます。

 

加藤さんの訃報に接し、ご家族、ご親族、ご友人の皆さんに、深く弔意を表します。

加藤多一さんは、北海道という拠点から、生きることのすばらしさと、それを阻むものへの闘いの大切さというメッセージを、日本中の子どもたちに発信し続けました。

ロマンと抵抗精神に満ちた加藤さんのご生涯と文学活動に、心からの拍手を送ります。

加藤さん、ありがとう。さようなら。でも、加藤さんの作品は生き続けます。

                   日本児童文学者協会理事長 藤田のぼる

 

2023/03/25